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カイトとマスターの日常小話

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しょっぱいのを味わいに行くか。






「海、行くか?」

まだ、八時を過ぎたばかりのダイニングキッチン。珍しく早く起きてきたマスターがコーヒーを飲み干してぽつりと言う。
「うみ?」
「海、知らないのか?」
聞き返した言葉にマスターがそう返してきて、僕は茶碗を洗う手を止めた。
「…イメージとか情報でどんなものかは知ってますけど見たことないなぁ。…確か、しょっぱいんですよね?」
「ああ。天気もいいしな。そのしょっぱいのを味わいに行くか。…さて、車の鍵、どこにしまったけな?」
僕のマスターはとても気まぐれで行動が早い。広げていた新聞をマガジンラックに放り込んで、眉を寄せた。
「仕事場のデスクの二番目の引き出しです」
僕は答えて、マスターが飲んでいたマグカップを片付けて、洗濯物を急いで干す。今日はとてもいい天気だ。秋晴れと言うらしい。
「カイト、後、やっとくから着替えて来いよ。後、タオル2枚…いや、3枚…念のために着替えも準備しとけよ」
頭をクシャリと撫でられて、手の中のシーツを奪われる。マスターは鼻歌を歌いながら、竿に掛けたシーツを広げていく。
「…? はい」
鍵を探すついでに着替えたマスターに後を任せて、僕はマスターの言葉を疑問に思いつつも着替えとタオルを準備して、支度をすませた。

 マスターは戸締りを済ませ、玄関で待機していた。

「行くぞ。…それにしても、久しぶりだな、ドライブ」
車庫から久しぶりに日を見た車のボンネットを撫でて、マスターが言う。
「道中のBGMはお前の歌な」
「はい。がんばって歌いますね」
助手席、僕は笑う。僕はVOCALOIDだから、歌えることが一番の喜びだ。マスターは僕を解ってる。
「…海は広いな 大きいな〜♪」
「…うみはひろいな おおきいな〜♪」
「月は昇るし 日は沈む♪」
「つきはのぼるし ひはしずむ♪」
マスターが口ずさんでいた歌を自分の中に取り込んで、言葉にのせる。マスターが楽しそうに笑う。
「流石! 童謡は得意だな」
「童謡はメロディーが覚えやすいから。それに、歌詞もいい詩が多いですし」
「確かに、な。最近の曲より、昔、小学校とかでならった曲とかの方が覚えているし。そうだな、…覚えてるので、お前の好きそうな歌があるぞ」
「何ですか?」
「アイスクリームの歌」
「歌いたいです!」
アイスクリームの歌…なんて、素敵なタイトルなのだろう。タイトルだけでうっとりとしてしまう。
「…ホント、お前、アイス好きだな」
呆れたようにそう言うマスター。僕はむうと眉を寄せた。
「いいじゃないですか。マスターのお酒よりは健全だと僕は思いますけど」
「…こりゃ、痛いところを突かれたな」
苦笑するマスターの赤く日に焼けた髪を風が撫でる。
「何せ、習ったのが十何年まえだからな歌詞がうろ覚えだ。…帰ったら歌詞と曲を探して歌わせてやるから」
「はい。楽しみにしてますね」
風の匂いが変わる。きらきらと青い水面が反射するのが窓から見える。
「マスター、これが、海ですか?」
「これが、海だ。すごいだろう?」
どこまでも、色んな青が無限に広がって見える。マスターが即興で教えてくれた歌の通りに、広いし大きい。聞こえてくる、波の音も耳に心地良い。
「…着いたぞ」
車は閑散とした白い砂浜が目前に広がる駐車場に止まった。

「わあ!」

ドアを開いて、潮風を身体に受ける。空気が違う。
砂の上、恐る恐る踏み出す。ざらりと靴の中に砂が入る。顔を顰めた僕にマスターが言った。
「靴、脱げ。きっと、気持ちがいいぞ」
「はい」
言われた通りに靴を脱いで、靴下を取る。素足で踏む砂の感触は不思議なものだった。
「しょっぱいのを味わいに行きますか」
裸足になったマスターが波打ち際へと歩いていくのを慌てて追いかける。
「待って、下さ……うわっ!」
砂に足を取られて、思い切り転んだ。恥ずかしい。
「平地と違うからな。気をつけろよ」
笑いを含みながら、マスターが僕に手を差
し伸べる。
「…はぁい」
もっと、早く言ってくれれば転ばなかったのに。クスクス笑うマスターを睨んで、差し伸べてくれた手を取る。マスターは僕に着いた砂を払ってくれた。そのまま、手を引かれて、波打ち際。ゆっくりと穏やかに水が爪先に打ち寄せる。不思議な感触だ。
「…冷たい、ですね…」
「…シーズンオフだからな…」
辺りを見回せば、ここにいるのはマスターと僕だけ。遠くに船が見えるけれど。
「折角、来たしな。入っとこう。くらげもいないみたいだしな」
マスターはジーンズの裾を膝まで折り曲げる。僕も真似して、裾を折り曲げる。

 ちゃぷ。

マスターが海に入っていく。踝を柔らかく波が撫でていく。
「…うーん。冷たい」
しゃがみ込んで指先を波に浸して、マスターが言う。僕はそっと足を踏み出した。

 冷たい。

でも、刺すような冷たさじゃない。
「海って、冷たいんですね」
「…ん。あったかいときもあるけどな。…あったかいときは人が多いからなぁ」
「そうなんですか?」
「夏の海はどこから湧いて出たっていうぐらいひとで溢れてるぞ」
「…そうなんですか?」
僕には想像もつかない。
「カイト」
顔を上げるとマスターは僕を見て笑った。
「しょっぱいのを味わないと」
「…あ、はい、そうですね」
しゃがんで指を浸す。その指を口に含むと、知識の通りにしょっぱかった。
「どうだ?」
「…どうだって、しょっぱいです」
「しょっぱいか」
マスターは目を細めた。
「学習したな。まぁ、そのうち、歌以外にも色んなことを教えてやるからな」
色んなこと…それを知れば、もっと上手く、歌えるようになるだろうか?マスターの喜ぶ顔が見たいから、僕は色んなことを知りたいと思う。世界は広くて、この海みたいに無限だ。
「はい」
頭を撫でて、マスターが立ち上がる。時々、思う。マスターは僕を犬か何かに思ってるんじゃないだろうか?褒めてくれるときとかかまって欲しいなと思うと頭を撫でてくれるし…嫌じゃないですけど、ちょっと複雑だなぁ。僕は犬じゃなくて、人工知能を搭載した歌うアンドロイドですよ。愛玩動物じゃないですからね!…そう思いながら、立ち上がろうとしたら大きな波が来た。

「あ、」

と、思ったときには僕は派手に波をかぶって、尻餅をその場に着いていた。
「…期待を裏切らないなぁ。お前」
ひとりだけ波から逃れて、可笑しそうに笑う無被害なマスターを睨む。…マスターが言った着替えは僕がこうなることを見越してのことだったらしい。……って言うか、波に気をつけろとか一言言ってくれればいいのに。マスターは意地悪だ。
「マスター、起こしてください」
「はいはい」
しょうがないなと差し出される手。その手を掴んで、引っ張る。水の跳ね返るいい音がした。
「…っ、カイトッ!!」
僕と同じように全身ずぶぬれになったマスターの怒声が静かな海に響く。
「意地悪のお返しです」
マスターの怒声に怯むでもなくきっぱり、僕が言うとマスターはもごもご口の中で僕に投げつけようとしていた罵詈雑言を飲み込んで溜息を吐いた。
「…誰が意地悪したよ」
「マスターが波に気をつけるように言ってくれれば、注意出来ました」
「…いつくるか予想出来ないものを注意できるかよ…」