BSRで小倉百人一首歌物語
第79首 秋風に(サナダテ)
その夜は、雲が空を被い、そろそろ満月を迎えるはずの月を隠していた。
奥州へ急ぐあまりに、供も連れずに来たことを幸村は少しだけ後悔していた。口をきく者もなく、朝から晩まで馬に揺られるのは思いの外辛い。普段ならば控えている佐助も、今回は他に寄るところがあるからと、別行動なのである。
早くたどり着きたいという焦りが判断を狂わせたのか。もう日もとっぷりと暮れたというのに、幸村は未だに一人、暗い街道を馬を引いて歩いていた。とはいえ、政宗の居城まではもうあと僅かのはずだ。それほど通い慣れたとは言えない道だが、松明の灯りを頼みに歩く。
不意に、一人歩く幸村の耳に猫の鳴き声が届く。その声を聞いて、昨晩宿で聞いた噂話を思い出してしまう。曰く、近頃仙台様のお屋敷の近くに猫又が現れる、と。また曰く、どうやらその猫又は人をとって喰うらしい、と。
数多の戦場を駆け抜けてきた幸村であるが、怪異の類いは昔から苦手だった。物の怪は正体が掴めない上に、何を仕掛けてくるか分からないからだ。
いやいやそんなものはおるまい、と己を奮い立たせながら、再び歩を進める。手にした松明の炎が心許なく揺れる。妙に静かだ。相変わらず月は雲の向こうに隠れたままであり、松明の灯りが届かない所は闇に閉ざされている。まるで今にもそこから得体の知れない何かが現れそうなほどに。
ぶるりと体を震わせて、先を急ごう、と思った瞬間、幸村の肩に何者かが触れた。
「うおおおお!?」
およそ武人とは思えないような情けない悲鳴を上げて、思わずその場から逃げようとする。しかし恐怖と疲れで足が絡まって思うように動かない。そのまま脇を流れる小川へと転がり落ちてしまった。はずみで松明も取り落としてしまい、辺りは完全な闇に包まれた。
「…真田?」
「政宗殿!?」
かけられた声に、顔を上げる。暗がりでよくは見えないが、その声は間違いなく政宗の声だ。何故こんなところに、と言いかけて黙る。今の己の姿を思い出したからだ。
「何やってんだ…」
呆れたような声が頭上からかかり、幸村はまともに政宗の方を見ることができなくなった。当然だ。想い人にこんな間抜けた姿を晒して平気でいられる男が、いったいどこにいるというのか。
すっかり気が挫けてしまった。その上、小川から脱け出そうにも、何故か立つことができない。ますます情けなくなって、何だか泣きたい気持ちになる。するとそれを察したというわけでもないだろうが、すっと白い手が差し出された。
「おい、いつまで呆けてんだ」
掴まれ、ということらしい。これ以上情けないところを見られたくはなかったが、かといってこのまま腰を抜かしたままでいるわけにもいかない。幸村は素直に政宗の言葉に従ってその手を取った。強い力で手を引かれ、幸村はようやく小川から脱出する。
「申し訳ござらん…みっともないところをお見せしてしまって…」
「それは構わねぇんだが、何をそんなにびくびくしてんだ?」
まさか猫又が恐ろしくて、とも言えず、曖昧に笑う。政宗は怪訝そうな顔を向けるが、それ以上追及するつもりはないようだ。
軽く咳払いをしてから、幸村は尋ねる。
「して、政宗殿は何故ここに?」
政宗は、事も無げに答える。
「アンタがあんまり遅いからな。近頃このあたりには…」
「ね、猫又でござるか!」
「Ah?猫又ぁ?何言ってんだ、野盗だ、野盗」
「そ、そうでござったか…」
早とちりしてしまったことよりも、猫又に怯えていることを悟られてしまったのではないかと気が気でない。だが、幸いにも政宗は意に介していないようだ。
言われてみれば、政宗は鎧こそ着ていないものの、帯刀しているらしい。そうして静かに燃える瞳で暗闇を睨み付けている。
「なるほど、それではこれから野盗征伐に?」
「Of course…と言いたいところだが、まずはアンタを屋敷まで連れていかねぇとな」
「いや、それなら某も一緒に参ります」
「…客人に風邪引かせるわけにはいかないんでね」
言われてようやく自分の今の格好を思い出す。確かにこれでは足手まといにしかならないだろう。
「本当に申し訳ない…」
「それはもういいって言ってんだろう。さっさと行くぞ」
政宗が近道だからと先導した道は細い獣道で、お世辞にも歩きやすいとは言えない。先が見えないだろうからと、政宗は幸村の手を引く。これでは稚児のようだと幸村は少し恥ずかしく感じたが、同時にまた政宗に触れているという事実に胸を熱くさせもした。
木々の間をくぐり抜け、葉がひときわ繁っているところを抜けると街道に合流し、目の前に伊達屋敷が現れた。林の中を歩いている時には気付かなかったが、月が雲間から僅かにその姿を覗かせている。
「このような道、よくご存じでしたな」
「ま、この辺は庭みたいなもんだからな」
政宗は幸村の手を離し、代わりに政宗が握っていた幸村の馬の手綱を握らせた。
「政宗殿?如何なされた?」
幸村に先を歩かせて、少し離れたところから政宗が返事をする。
「アンタは先に屋敷に行って休んでな。俺は見回りをして戻るから」
そう言ってくるりと背を向けて、暗闇へと消えていった。屋敷には灯りが灯されているとはいえ、それほど遠くまでは照らせない。政宗は灯りも持たずに大丈夫なのだろうか、それにここに向かう道中も、いくら慣れた土地とはいえ、あの暗闇で迷わず歩くことがどうしてできたのだろう。
不思議に思いながらも言われたとおりに屋敷へ向かう。幸村の到着を見計らったかのように、門扉が開かれた。開いた門の向こうにいた人物を見て、幸村は仰天した。先程去っていったばかりの政宗が、そこにいた。
「真田?どうした?」
口をぱくぱくとさせている幸村を見て、政宗は眉を寄せる。
不意に背後からにゃあという声が聞こえて、幸村は飛び上がらんばかりに驚く。その幸村の足元を、小さな黒猫が足早に駆け抜けていった。
「ん?見ねぇと思ったら外に行ってたのか」
その黒猫を、政宗がひょいと抱き上げる。猫は嬉しそうににゃんと鳴く。もう何がなんだか分からなくて、幸村はぼんやりとその光景を眺めていた。
「前にアンタと城下に行っただろ?その時の猫だ」
「はあ…」
「ほら、子供に虐められてたのをアンタが助けただろ?覚えてねぇか?それからいつの間にかうちに住み着いてんだ」
「そ、そうでござったか…」
言われてみれば、そんなこともあったように思う。政宗の腕の中で、猫が相槌を打つように短く鳴く。
「それにしても、アンタ何でそんなにずぶ濡れなんだよ。すぐ湯を用意させるからさっさと入りな」
「は、はい」
「途中追い剥ぎに会わなかったか?最近この辺りに出やがるから気になってたんだ」
「いえ、大丈夫でござる…」
「ならよかったんだがな。そろそろ仕置きに出ないといけねぇと思ってたとこだ」
話している間にも、猫は隣に並ぶ幸村を一心に見上げていた。
どうにも今宵は不思議な体験をしたものだ。雲間から差し出でる月影が、辺りを優しく照らしていた。
秋風に たなびく雲の 絶え間より もれいづる月の 影のさやけさ
作品名:BSRで小倉百人一首歌物語 作家名:柳田吟