ネメシスの微睡み~接吻~微笑
ネメシスの微笑 5
時が止まったままの双児宮。石壁に背を預け、不安定な精神を漂わせながら座して過ごした。やがて闇を奥へ奥へと押しやるように、入り口から差し込んだ朝陽が宮の回廊を撫で進んで行く。
──もう、行かなければ。
己が守るべき宮へと戻らないと……そう頭では判ってはいても、身体が拒絶したように──それこそ、根が張ったように動くことができなかった。
割合に未練たらしいと自嘲していると、双児宮に自分以外の人の気配を感じた。
あぁ……何故、どうして。
弱く脆くなった精神の時に限って、あの人と対面することになるのだろうか。見せたくも、見られたくもない、今のこの姿。
私以上に雑多な感情がその人物を取り巻いていた。穏やかさには程遠く、怒りに最も近い位置にある感情の渦が、彼を取り巻いているのが感じ取れたのだ。
このまま鉢合わせすれば、互いに感情をぶつけ合い、とても厄介な事態に陥るかもしれない。うまくやり過ごす余裕などまったくない、擦り切れた精神状態。それにもかかわらず、身体は石壁に縫い付けられたままだった。
「――シャカよ、余の呼びかけにも応じず、このようなところで何をしている」
くぐもった声はいつにも増して硬い。他者を隔てる仮面を通した特徴的な声が耳へと届いた。だが、顔を上げる事もせず答えない私に対し、苛立ちが蓄積したかのように、仮面の声の主こと教皇の叱責が続いた。教皇宮からわざわざ足を運ぶほどの事情もあったのだろう。それ故に苛立ちも大きいとみえる。だがそれでも答えようとはしない私に、とうとう怒りを爆発させ、強引に教皇は私の腕を掴んだ。
「──るな」
「何?」
「私に触れるな、と言った」
「な……!?」
思いもよらぬ返答だったのだろう。滑稽なほどに教皇は驚愕し動揺していた。その仮面を剥ぎ取れば、どのような表情をしているのかほんの少し興味が湧いたが、すぐに失せた。
僅かに緩んだ教皇の手を払い、私は立ち上がった。閉じていた瞳を開き、目の前の教皇を見据える。サガの幻影を断ち切る為に。
仮面に覆われた教皇の表情はわからない。けれども僅かにのぞく喉仏が緊張したように上下するのが見て取れた。
私が一歩踏み出せば、一歩後退る教皇。
先刻までの怒りは影を潜め、恐怖に怯えているように見えた。まるで人形だったものが人間にでも化けたのを目撃したかのように。
教皇の前で感情らしい感情を見せた覚えはない。聖域の一部、聖闘士としてそう努めてきた。
それこそ、人形のように。だからこその驚きなのだろう。
「あなたが何者であろうと……私には関係のないこと。教皇よ、あなたご自身が口になさったように、あなたですら聖域の歯車の一つなのでしょうから。そして私もまた同じく。あなたが玉座にて在るならば……たとえ私を従わせるためだけにサガのごとき振る舞いをなさるのだとしても、何も言わず付き従いましょう。だが──」
後退りすることすらできなくなった教皇。私は今までにないほど近づいた。
「此処はサガの守護する宮。サガだけが在ることを許される場所。サガでないものがサガのごとく振る舞い、この場を穢すことは……許さない」
許さない。
許すことなどできなかった。
自身でも驚くほど冷えた低い声を放つ。ずっと引き絞り、狙い定めてきた弓矢を射るように。そして教皇も射られた矢を受け、仮面さえも歪ませるように小刻みに震えていた。
「──そうまで……それほどまでに…あの男のことを……忘れぬのか」
不安定に揺れる低い声が届く。掻きむしるように深く頭を抱え込み、崩れ落ちそうな教皇をぼんやりと眺めながら、問いに対して私は小さく頷くだけに留めた。
もうこれ以上、教皇と語り合う必要性はなかった。するりと教皇の横を通り過ぎようとしたその時、再び教皇は私の腕を取ったのだった。
作品名:ネメシスの微睡み~接吻~微笑 作家名:千珠