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凌霄花 《第二章 松帆の浦…》

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〈01〉江戸の生活



 その晩、彼は縁側に座っていた。
手には朱塗りの杯。
 その中に揺らめくのは、弓張月。

 側用人柳沢吉保は、独り言のようにつぶやいた。
 
「……赤穂の城は難なく落ちた。あっけないもんよ」

 すると、庭先から静かな低い声が。

「……大石は、敵討ちを目論んでおります」

 慎重なその言葉を、彼は鼻で笑った。

「……昼行灯に、何が出来よう。小さい田舎大名の家老ごときに」

 しかし、男は引かなかった。

「……されど、油断は禁物。他藩の者が探っております」

 吉保は姿の見えぬ男が居るであろう方向を胡散臭そうに睨むと、杯を開けた。
そして、手酌で再び並々を酒を注いだ。

「……ならば見張りを続けろ。念のためにな」

「……御意」
 
 男の気配が、その場から消えた。
残るは吉保ただ一人。

「……昼行灯に何が出来る? この天下は俺の手の内。俺の物」

 美しい上弦の月を愛しげに眺め、一息に飲み干した。






「……何時になったら、帰れるんだろな?」

 皐月。早苗と助三郎が赤穂城開城を見届けて一月が過ぎた。
しかし、ここは佐々木家ではない。
 水戸藩下屋敷。
 
 上屋敷は小石川にあるが、下屋敷は少し南に下った隅田川沿いにある。
 下屋敷のほうが気持ち的に楽だったが、やはり自分の家ではない。

 助三郎は懐かしい我が家を思い、愚痴っぽくなった。
 しかし、すぐさま彼に活を入れる者がいた。

「仕方ないでしょ? いつ何が起こるかわからないんだから」

 早苗は、彼に袴を手渡した。
 
 武家の妻女が夫の身支度を手伝う。
 当たり前の光景だった。

 助三郎は妻から袴を受け取った。

「しかし、俺ら二人一緒の役宅でよかったな」

「そういえばそうね……」

「別居は寂しいからな」

 普通であれば、助三郎と『格之進』は別の役宅。
 しかし、上が何を思ったか、二人は『同居』だった。
しかも、棲家は他の藩士たちと少しはなれた静かな一角。
小さいながら庭もあって、クロが遊ぶには最適だった。

 助三郎は身支度を済ました。
しかし、目の前の妻に若干戸惑った。
 悠長に彼の寝間着を畳んでいた。
 
「早苗」

「なに?」

 作業する手を止めず、彼女は彼女の仕事を続けていた。
彼はその傍にしゃがみこみ、心配そうに言った。

「……格さんは時間に間に合うのか?」

「あ!」

 早苗はその瞬間、寝間着を放り出し、鉄砲玉のように走り去ってしまった。

「……遅刻だな」

 そう言い終るや否や、台所で凄まじい物音が。
 何かがぶつかり合う音、何かが割れる音……

「大丈夫か!? 怪我しなかったか!?」

 驚いて声を掛けると、気丈な返事が帰ってきた。

「大丈夫! あぁ!?」

「今度はなんだ!?」

「ギャイン!」

 騒がしい妻に気が休まらない彼の耳を、犬の悲鳴がつんざいた。


『御犬様大事』が一番厳しい江戸。そんな声が聞かれては、危険極まりない。
 
「あ、踏まれたな……」

 その通り、クロは『痛い』だの『骨が折れた』だの悲しい可哀想な泣きごとを口にしていた。
そんな黒犬を、優しい声が宥めていた。

「痛いの痛いの飛んでけ! ね? もうなんとも無いでしょ?」

「クゥン、クゥン……」

「……まだ前足痛いの? ブラブラさせて……折れてるんだったら、お医者様呼ぶ?」

「キャン!」

 クロが大人しくなったと同時に、家中が静かになった。
が、助三郎が待てる時間はもう無かった。

「先行くからな!」

 しかしその瞬間、男が目の前に現れた。

「もう良い! 行ける!」
 
 すでに身なりはピシッと決まっている。

「お、さすがだ。決まりを絶対に守る男、格之進」

「どうも。さ、行こう!」





 その日の帰り道、助三郎は朝の出来事を見てからずっと考えていたあることを、早苗に打ち明けた。

「……やっぱり家から一人、下女を呼ぼう」

 早苗は歩みを止め、助三郎を訝しげに見た。

「……俺ら二人でも大丈夫だろ?」

「大丈夫じゃないから、呼ぶんだ」

 俯き加減になった彼女に、助三郎は優しく言った。

「な? お前のためでもあるんだ」

「俺のため?」

 彼女は顔を上げた。その眼に、夫の温かい眼が入ってきた。

「お前は俺みたいに適度に手を抜けない。真面目すぎる」

 早苗は何も言い返せなかった。
助三郎は尚も説得を続けた。
  
「だから、いつか近いうちに疲れる。倒れてからじゃ遅い。倒れてもらったら、困る」

 夫の優しさに、彼女は打たれた。
そして首を縦に振った。

「誰でも、良いんだな?」

「あぁ。お前にすべて任せる」





 数日後、二人の住処に旅装の若い女が立っていた。
早苗が出迎えると、彼女はほっとした様子で、会釈した。

「お久しぶりです。若奥さま」

「ここでは早苗にしましょ。前みたいに」

「はい。では、早苗さま」

 彼女は早苗が嫁ぐときに実家から連れていった唯一の下女だった。
歳が近く、一番仲がよかった。
 名を、夏と言った。
 主が『格之進』になったとき、驚き顔を真っ赤にしたこともあったが。
早苗が大嫌いな『男を見る眼』では決して見てこなかった。
 それゆえ、今も変わらず仲が良い。

 早苗はお夏を部屋に上げ、茶を出し労をねぎらった。

「ごめんね。わざわざ江戸まで。疲れたでしょ?」

 しかし、彼女は明るく答えた。

「いいえ。これぐらいなんともありません」

 気心の知れた彼女に安心し、早苗は頭を下げた。

「今日からお願いします」





 早苗、正確には『渥美格之進』と助三郎は仕事を掛け持ちしていた。

 一つは、今回の『密命』。
赤穂藩士の動向を探ること。

 播州の藩士はお銀に任せ、二人は在府の藩士を地道に調べていた。
 しかし、『敵方』も知らないと話にならない。
 弥七を吉良の調査に回し、報告を受けていた。
 そして、これらをまとめて藩主に報告する。
 助三郎中心の仕事となっていた。

 二つめは、本来の仕事。『大日本史』編纂。

 これは江戸の上屋敷での業務だった。
密命との兼務で、毎日の出仕は免除。
 こちらはどちらかというと、文章が上手い早苗中心の仕事となっていた。
 
 この日、早苗はお休みで国許からやってくる下女を出迎える一方で、助三郎は上屋敷に居た。
赤穂方の最新情報を藩主徳川綱條に報告していたのだった。
 お銀から入ってきたのは、代わり映えの無い情報。
 『内蔵助をはじめとする藩の上層部は、残務処理に追われている』
 それだけだった。


 一通り報告を終え、御前を下がった助三郎は溜息をつきながら廊下を歩いていた。
 
「はぁ…… やっぱり、無理か」

 一時帰郷を遠まわしに打診したが、渋られた。
江戸の気疲れもあったが、それよりも身内の心配だった。
 人気の無い庭に面する縁側に彼は腰掛けた。
 そして、ぼんやりと庭を眺めた。

 木々は青々と茂り、鳥は元気にさえずっていた。
日が少しずつだが徐々に長くなっていく。春が過ぎ、もうじき梅雨に入り夏になる。
 それを肌で感じていた。
 しかし、明るい気持ちにはなれなかった。