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飛空都市の八月
飛空都市の八月
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あなたと会える、八月に。

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第6章 19歳



◆1

 そこは、相変わらず美味い朝食を出すホテルだった。
 最後にジュリアスがここへ来たのは、ジュリアスとしては一年と少し前、このホテルからすればもう二十年以上前になる。にも関わらず件の不思議な食感のパンも健在で、ジュリアスを大いに喜ばせた。もっとも、すでにジュリアスはその嬉しい事実を知っていたけれど。
 食事を終え、部屋へ戻るとジュリアスは、開かれた大きな窓から外を臨む。どこに水平線があるのかわからないほど海は空と同じ青一色に染まり、陸地へ近づくほどに濃い青から薄く透明な緑色へと変化していく様子が見てとれる。
 ああ本当に……全く同じだ。
 この海と空を映し出したカードが聖地にいるジュリアスへ届いたときのことを、ジュリアスは思い出す。



 カードには、おかげさまで躰だけでなく心もすっきり晴れましたとジュリアスへの謝意と共に、お話どおり朝食はとても美味しくて、とくにパンは格別でしたと流麗な文字でしたためられていた。
 そしてその横には、短く「ありがとう」と書かれた別の筆跡があった。
 ディアと……前女王アンジェリークも、ここから見渡せる海と空、そしてあの朝食を満喫したようだ。しかし、もともとこの部屋とここで過ごす時間−−聖地ではなく、主星における八月−−は、学生時代にこの海で夏を過ごしたことのある二人から、ジュリアスへ贈られたものだった。それを、たった一度−−最後に一度−−譲っただけのこと。それでも喜んでもらえたのは何よりだった。
 女王候補の頃から、二人は本当に仲が良かった。聖地を出て、これから二人がいったいどうするのか、ジュリアスには知る由もなく、また、尋ねるつもりもなかった。ただ、二人が二人らしく生き、幸せであってほしいと心から願っている。
 その一方で、このカードの海と空を見た瞬間、ジュリアスは初めて『郷愁』という感情が、自分の中にもあったことを知った。そのようなものを感じたことは一度もなく、ましてや、あるということすら知らなかった。五歳のとき聖地へ来て以来、所用でたまに主星の街を行くことがあっても出身であるこの星を、懐かしいと思ったことなど全くなかった。何故なら、幼過ぎて思い出になるような出来事も、それに伴う背景も、覚えのないまま成長したからだ。
 けれど。
 この海、この空は間違いなくジュリアスの『故郷』となるだろう。
 そしてこの『故郷』には、あの『家族』が−−



 軽くため息をついてジュリアスは、このホテルに来てから三日目となった習慣を遂行すべく手に薄いファイルを持って部屋を出た。
 向かう先は音楽室だ。
 入口にはすでにコンシュルジュが待機しており、ドアを開けてジュリアスに鍵を預けると、恭しく礼をして去っていく。
 ホテルで働く者の一部は、ジュリアスの正体にうすうす気づいているのか、もともと知っているのか−−二十年経ってもパンの味が変わらず美味いように、勤続二十年以上の者がざらにいそうなところだから、この、毎年来る来ないに関わらず八月中、ホテルの最上級の部屋を予約し続けている『ジュリアス』という名前の青年−−ずっと青年であり続けている−−のことを不思議に思わぬ訳はなかった。それでも、彼らはそのような疑問をおくびにも出さず、礼儀正しく、ある意味淡々として職務をこなしている。
 そのような彼らでも、はたして覚えているのだろうか−−彼女のことを。
 ジュリアスはきっちりドアを閉じ、海の見える窓も閉じられていることを確認すると、おもむろにピアノの前に座りながら思う−−この部屋を八月の午前中、ずっと使っていたヴァイオリンの名手である少女のことを。午前中の楽しみはあのパンのある朝食と、ここでその少女によって奏でられ、少し開かれた窓から漏れ聞こえるヴァイオリンの音色だった。
 手にしたファイルから一枚の楽譜を取り出すとジュリアスは、それをピアノの譜面台に広げた。そして、すぅ、と深呼吸すると、その楽譜を目で追いながらゆっくりと、しかし懸命に鍵盤に触れ、押していく。そう、弾いていると言うよりはむしろ、押していると言った方が良い。そうしてジュリアスは、自分では気づかぬうちに楽譜を見るため前のめりになって、どうにかピアノを『弾いている』。
 その楽譜は手書きだ。曲名や、楽譜の中のところどころに記された演奏の指示内容を示す音楽用語の文字からしてあの少女−−もう少女とは言い難い−−彼女自身のものだろう。それはヴァイオリンではなくピアノ用に編曲され、そのうえおそらくは……ジュリアスの腕前を考慮して平易なものにしてくれているはずだ。ただし、途中で一気に音の高くなる箇所があり、ジュリアスはそこに印をつけて注意を促しているのだが、指が追いつかず詰まってしまう。
 「……また、か」
 小さくごちるとジュリアスは、楽譜を睨みながら鍵盤の上、片手ずつ動かしてみる。指自体は長いから、片手ずつ、そして見ながらであれば指は該当する音の鍵盤に充分届き、ほどほど滑らかに弾くことはできる。それから右手と左手を合わせて弾いてみるのだが、やはり同じ箇所で引っかかってしまう。
 そのように悪戦苦闘しながらも、なんとなく、あの懐かしい旋律に近づいているような気がするのは、ジュリアス自身の頭の中で件の美しいヴァイオリンの音が響いているからかもしれない。そのうち熱中し過ぎて、たいてい鼻唄よろしく口ずさみながら弾いてしまっている。ただし、指の奏でるピアノの音が、その歌声のテンポについていかないのが難点だ。
 ひとしきり弾き終えるとジュリアスは、椅子から立ち上がり腕を肩からぐるぐると回して、力が入り過ぎたために凝り固まった躰をほぐしながら窓の前に立ち、思い切りそれを開け放つ。
 すっ、と潮の香りを含んだ新鮮な空気が入り込み、ジュリアスはそれを深く吸い込んで人心地つく。
 眼下には、エア・カーが行き交っている。
 日中は環境および安全保護のため、この地域へのエア・カーの乗り入れは禁じられている。だが今はまだ午前中の早い時間で、ホテルの前には多くのエア・カーが出入りし、これから宿泊したり、朝食だけを楽しみに来たりする客たちが入れ替わり立ち替わり訪れている。その中に見知った人物−−青い髪の−−がいないかと目で探してジュリアスは、それを無意識にやってしまっている自分に気づき、苦笑する。
 楽譜を書いた主はまだ来ない。
 それでも−−



 再び窓をきっちり閉じてピアノの前へ戻ると、ジュリアスは楽譜を見やる。
 遅くとも……彼女は八月十六日にはやって来るだろう。
 それは昔、交わされた約束。
 そしてこの楽譜こそが、その約束の証なのだから。