敵中横断二九六千光年3 スタンレーの魔女
地下都市の雨
その光が射(さ)し込んだとき、近藤の眼はあまりにも暗さに慣れ過ぎていた。野球場のスタンドの床に倒れて仰向けになり、息苦しさに喘いでいた。
だから目玉も上を向いていたのであり、そこに上から突然に光が降ってきたのだから、何もわからず明るさに眼が眩(くら)むばかりだった。
なんだ?と言おうとしたが、しかし声は出なかった。息苦しいのは、酸素がないからだけではない。一酸化炭素に塩素その他の有毒ガスを長く吸っていたせいだ。意識は半ば朦朧(もうろう)とし、ものを考えることができない。
それでも、ぼんやりとした頭で、『おれは夢を見ているのかな』と近藤は思った。たぶん、もう死ぬんだろう。眠るように死んでいく途中にある状態で、脳が幻覚を見始めたんだ。あの光はそれなんだ。そうだ。そうに違いない……。
その証拠に、上から雨が降ってきた。地下都市で雨? 有り得ない。〈雨〉なんてものはその言葉さえ、もう何年も忘れていた。でも、覚えているもんだな。上を向いたままの顔に降りかかってくる。
口にも入る。ひどい味だ。目にも当たって『痛い』と感じる。煙の中を落ちてくるせいで科学物質が混じるのだろうか。浴びた肌を刺激する。
そこで気づいた。雨じゃない? それに、この光も――。
体を起こし、手をかざして降ってくる水が目には直接当たらぬようにしながら上を仰ぎ見た。煙い。まるで霧のように視野が煙に包まれている。
上の方に光があって、煙越しに下を照らしているのがわかる。最初に眩(まぶ)しく感じたが、眼が慣れてくるにつれ、決して強いと言うほどの明るさでもないのがわかった。ゲーム中のグラウンドを照らす照明ほどではない。街の天井の灯りだ。
そして〈雨〉は、全市が火事になったときに消火するためのスプリンクラー。火事などもう酸素がないか、燃えるものがなくなったかでほぼ治まった今になって、やっと水を撒き始めたのか。
とにかく、冷たい。それを頭に浴びることで、少し意識がはっきりしてきた。これはつまり電力が戻ってきたと言うことなのかと思う。
それじゃあ、酸素は? 首を振った。苦しい。それはそのままだ。喉が痛くて吸うに吸えない。それもまたそのままだ。
しかし当然じゃないかと思った。照明の光と違ってそんなもの、すぐ元通りになるはずがない。
しかしどうなのだろう。空気もまた回復しようとしているのかな。それとも、全部まぼろしで、やっぱりおれはこれから死ぬところなのか。
見れば、おそらく今の自分も同じ表情をしてるのだろうと思えるような人間が、頭を振りつつ周りを見ている。それが何人も何人もだ。何百人も、何千人もだ。市民球場のスタンドに人、人、人。〈万〉の単位に達する人。
それがようやく、スプリンクラーの雨の中でまた眼に見えるようになったのだった。
少し離れたところにひとりの男の子が、父親らしき男に抱かれているのも見える。数時間前、『〈ヤマト〉はどうなったのか』と言った子だ。あのときは暗くてよく見えなかったけれど――。
それが今では明るさのためにはっきり見える。父親らしき男が言うのが聞こえる。
「おい、電気だ。電気だぞ。電気が戻ってきたんだ」
それを聞いてようやく信じる気になってきた。どうやらほんとに電力が回復したものらしい。
そう思った近藤の耳に、またその子の声が聞こえた。
「〈ヤマト〉は? 〈ヤマト〉はどうなったの?」
作品名:敵中横断二九六千光年3 スタンレーの魔女 作家名:島田信之