冒険の書をあなたに
前菜の皿には、葉で包まれた細長い棒状のものが盛られている。指ほどの大きさで見た目には葉巻にも見えるそれをナイフで切り分けると、中にはひき肉が入っていた。
アンジェリークがぱくりと口に運び、びし! と親指を立てている。
「この葉っぱが葡萄の葉っぱかしら、ちょっとだけ酸味があるわ。牛肉と、トマト……? なんかもちもちしてる」
相変わらず分析が早い、と苦笑しながらルヴァも一口食べてみた。
「ロールキャベツみたいですけど食べやすい大きさですねー。うんうん、美味しいですねー」
「んん、これ美味しいわ。聖地に戻ったらわたしも作ってみなくっちゃ!」
二人とも余程空腹だったのか、ぱくぱくとテンポ良く消費されていく。
「では私が味見係に立候補しますよ、しっかり味を覚えておきますからね」
ルヴァはアンジェリークの手料理が大好きだ。
知らない香辛料などを見つけると彼女はいつもルヴァの執務室に駆け込んできて、片っ端から調べるのだ。勿論彼女のために宇宙から選りすぐった食材の図鑑やレシピ本、栄養学の書籍を取り寄せて陛下専用コーナーを作っているのも、これまで一度も図書館を使うよう促さずにいたことも、そうしておけば彼女の訪問回数が増え、その後に手料理にもありつけるからだ。
グリーンピースのトマト煮込みが出てきたときは、何故かアンジェリークが笑い転げていた。
「どうしたんです? そんなに笑って」
「これ、オスカーが絶対食べられないなって思って……!」
「オスカーはグリーンピースが苦手なんですかー、それはいいことを聞きました。覚えておきましょう」
勿論、今度アンジェリークにちょっかいをかけてきたときに備えてである。
「あら意外、知らなかったの?」
クルミの入ったパンを一口ずつ千切りながら、アンジェリークが目を丸くさせる。
「ええ、嫌いな食べ物の話などをしたことは記憶にないですねー、ゼフェルが甘いものを苦手としているのは知っていますが」
「あれだけルヴァの執務室でお茶請けに文句つけてたらねー。わたしが前にケーキ焼いたら渋々、嫌そ〜に食べてたわ」
ぴたりとルヴァの手が止まった。
「……ゼフェルにケーキを? …………それはいつ頃の話ですか?」
「んーと、女王になって間もない頃じゃなかったかしら。気晴らしにがーっと作ったのをね。わたしとロザリアで食べたら残りがちょっとしかなくて、通りかかったゼフェルにあげたのよ」
ルヴァの恨みがましい視線がじいっとアンジェリークに突き刺さる。
「……もしかして、妬いちゃった、の……?」
ルヴァはその表情にありありと不満の色を浮かべて、こくん、と頷いた。
「なんで私のところへ持ってきてくれなかったんですか。あなたの作るお菓子なら、いえ、お菓子でなくても大歓迎でしたのに……嫌々食べられるよりずっと良かった筈ですよー」
それにゼフェルが彼女への想いを未だに持ち続けている懸念もあった。彼が渋々でも甘いものを口にしたのは、ひとえにアンジェリークの手作りだからという理由に他ならない。
だからこそいつか奪われてしまうのではないか、という恐怖が今も時折襲ってくることを────彼女は知らない。知らせるつもりもない。
「ほんとにね。今だったらそうしてる」
アンジェリークは口元を小さく綻ばせて卓上に置かれた葡萄を一粒もぎ取り、身を乗り出してルヴァの唇の前へと運んだ。
じっと見つめ返すとルヴァの顔が近付いて、小さな葡萄は彼の口の中へと消え────指先が微かに触れて、そっと遠ざかる。
「あの頃は早く一人前の女王になりたくて……ルヴァに頼らないようにしてたから」
逢ったら弱音を吐いて泣き出してしまいそうな気持ちを悟られたくなかったアンジェリークが、手紙に愚痴一つ書いて寄越さなかったことは、ルヴァが誰よりも良く分かっている。
「今はもうそんな必要はないですよ。あなたはとても立派な女王陛下で……私の一番大切な人です。これからもずっとね」
口角を上げて微笑みながら翠の瞳は少しだけ潤み、小さなキャンドルの光を反射させていた。
それから幾つかの郷土料理を味わって、二人は食後のお茶を片手に寄り添い合う。
ルヴァがふと天を仰いだ。僅かな雲が風に流され、白く冴え冴えと輝いた月がぽっかりと姿を現している。
「見て下さいアンジェ、今日は満月のようですよ。……もう九日もこちらにいたんですねぇ、思えば早いものです」
時刻は既に夜半を過ぎ、町は静まり返っている。ルヴァの穏やかな声がはっきりと聞こえるほどに。
「もうすぐ……この世界ともお別れですね。聖地に戻る前に、思い残すことはありませんか」
女王試験の頃にもこんな彼を見た────アンジェリークの中で懐かしい記憶が蘇り、少しだけ感傷に浸った。
瞬く間に過ぎ去っていくこの世界での「今」────二度とここへ戻ることは叶わない。
再び薄雲が月を覆った。おぼろに霞む月を見つめながら、アンジェリークはルヴァの言葉の意味をそっと心に刻み、吐く息に乗せて囁いた。
「ないわ。言い出したら本当にきりがないから、言わない」
静かに目を閉じた二人の瞼に僅かな哀愁がこもっていたことを、月だけが見ていた。