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怪我人

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静雄が、怪我をした。とは言ってもそう大層なものではなく、口の左端を切らしている程度だ。俺が、静雄による圧力の要らない単純な仕事を済ましている間の事だ。その辺に転がっていた物を知らないバカに、喧嘩を売られたらしい。何かの拍子にふいを突かれて、拳をモロに受けたそうだ。まあそのバカ共のその後は例の如く、見る影も無い有り様であろう事は容易に想像できる。可哀想だが、同情の余地は無い。こいつはそういう質なのだから、知らないでいる方が悪いのだ。
「……お前、口真っ赤んなってんぞ」
「え」
少し目を離していたら、血が唇に沿って広がったようだ。真向かいに座る静雄の顔に、唇の形が、異様に赤く浮き立っている。
「やっぱ何か塗っとけって」
俺は普段使わない為すっかり在処の分からない置き薬を探そうと、ソファから立ち上がった。
「や、マジ大丈夫っすから。気にしないでください」
静雄は、シャツの袖で唇を拭う。が、血の付いた袖口を見て、あ、と小さく呟いたかと思うと、途端不機嫌な顔になった。
「何だそのツラ」
「……汚しちまいました」
なるほど。弟くんに貰ったもんを汚したのが気に喰わない訳か。
「あー、すぐ洗えば落ちるって」
「……血って、なかなか落ち無いんすよ」
俺のフォローも虚しく。これが初めてでは無いようだ。当たり前か。諦めたように、静雄はまた袖を汚している。
ふと思ったのだが、弟くんは、こいつの怪我を減らす目的もあって服を贈ったのだろうか。喧嘩をして、破いたり汚したりしないようにと。だとしたら、買い被りで無い自信を持っているのだろう。静雄に愛されていると言う自信。いや、確信かも知れない。妬けるじゃねーの。……いやいや妬けるのはおかしいだろ。
「トムさん」
「お、何だ」
いかん、ショートしてた。
「取れてますか、血」
「……や、伸びてる」
口の周りがデロデロになってるぞ静雄。なかなかに凄惨な光景だが、似合い過ぎて、堪え切れず少し笑ってしまった。ライオンの補食シーンのようだ。そんな俺を見て静雄は、訳が分からない、とでも言いたいふうに、きょとんとしている。あの、平和島静雄がだ。それが何とも間抜けくさくて、また笑ってしまう。
「そんな変ですか」
「や、じゃなくて、いやそうだけど、なんつーかお前、かんわいいよなあ」
「なんすか、それ」
「何でもね。つかそれ、見た目より傷深いんじゃねーの。血ぃ止まんねーじゃん」
よし見てやろう、と身を乗り出すと、静雄が少し身動いだ。
「どしたよ」
「あ、……なんでも、ないす」
少し気になったが、何でも無いそうなのでまあいい。まず、血が乾いてしまう前に、デロデロの顔を拭いてやらねば。デスクまで行けばティッシュ箱があったが、繊維が媚びり付くだろうし、もう身を乗り出してしまっているので、俺のYシャツの袖を献上する事にする。幸い今日は黒だ、汚しても目立たないだろう。
「や、トムさん、いいですって、」
たじろぐ静雄の口を、面倒だからいんだよ、と布地で塞いでしまう。んぐ。静雄が鳴いた。大人しくなればこっちのものだ。とは言え怪我をしている訳なので、力任せにする事も出来ない。左側に触れないよう気を付ける。あ、意外と柔らけ。
「つ、」
「わり、当たったか」
「平気っす」
「ほーか。ちょお、口開けてみ」
静雄は言われた通り、綺麗になった口を薄く開ける。傷が開いたらしく、少し目元が歪んだ。見ると、やはり唇の左端だけ、赤い肉が丸見えだった。かと思うと直ぐに血が滲んで、もうそれすら良く見えなくなっている。この場合は、どうすれば良いのだろう。絆創膏は探せばあるはずだが、位置が微妙過ぎて貼り方に困る。まずは消毒とかした方が良いのだろうか。やはりオロナインとかか。
取り敢えず、口閉じて良いぞ、そう言おうとして、しかし俺の目は静雄の口内を捉えた。赤く光る静雄の舌。少しばかり赤過ぎるようだ。
「噛むなよー」
「え、」
嫌がる前に、すかさず指を突っ込んだ。粘膜に覆われた舌が、俺の指に押されてぬろりと動く。人差し指に熱い息が掛かった。噛むなと言ったのが効いたらしく、静雄は固まって動かないので、そのまま人差し指をスライドさせて、下唇の裏をゆっくりと左の頬まで滑らせる。歯に爪が当たるとその度、コツリ、コツリと音がした。厚い頬の肉を、内側からぬるぬると探ってやる。と、触れると筋肉が強張る箇所を見つけた。そこで指を引き抜いて見ると、案の定、糸を引く唾液に赤いものが混ざっていた。
「やっぱ口ん中も切れてんじゃねーか」
歯に当たって引っ掻いたんだろう。何でこいつは自分で言えないのか。もしかして、痛くねーのか。困った、口の中はどうやって消毒したら良いのだ。
濡れた指をシャツの袖に拭い、俺は静雄を見る。あ、不味い。何処を見ているのか、目が合わない。
「悪かったって、お前が言わねーのが悪いんだろ。怒んなよ、な」
静雄が俺にキレた事は無かったが、何だかヤバそうだったので弁解をする。しかし静雄は、は?と俺の目に焦点を合わせた。それから気付いたように、あ、と呟くと、また明後日の方向を向いてしまう。キレられているのでは無いようだが、様子がおかしい事に変わりは無い。
「いや、すんません、なんか、」
珍しい。静雄が吃っている。
「おう」
「なんか、トムさんの手、卑猥っすよ」
……何だそれ。思わず自分の右手に目をやる。つい先程、こいつの口の中を弄っていた、手。
「……あ」
今度呟いたのは俺だった。温い感触を思い出して、思わず声を出してしまった。
おい、静雄、どうしてくれる。変な間ができちまったじゃねーかよ。

作品名:怪我人 作家名:空耳