ゴーストボーイ
タクシーで空港に駆けつけたイギリスは、アナウンスを聞いて大きく舌打ちをした。遅れるんなら電話の一本寄越せっての……。胸ポケットの携帯を開いたイギリスは、そこでようやく着信があったことに気付く。履歴に表示されていた相手は香港。仕事が忙しくて出ることができなかったらしい。はあ、と溜め息をついて、ロビーの椅子にどかりと腰掛けた。三時間の待ちぼうけが出来るほどの時間は、今日のイギリスにはない。せっかく極東から彼が来てくれるというのに、会うことは叶わないようだ。一息ついたら仕事に戻ろう。取り出した煙草に火を点けて、吸い込む。肺まで落とそうとして、「イギリス?」
「はっ!? 香港、何でおまえここに…げほっ」
「あー…大丈夫?」
香港に背中をさすられながら、涙目でイギリスは彼を見た。香港は苦笑しながら、とんとんと背中を叩いてやった。
「…フライト、遅れてるんじゃなかったのか?」
しばらくして落ち着いたイギリスは、持っていた煙草を灰皿に押し付ける。その目はもう潤んではいなかった。香港の横には、空港内のほかの旅行者が持っているようなスーツケースが置いてある。グレーのそれは前に彼が訪れたときと同じ、イギリスが買い与えたものだった。それにスーツも、イギリスが前に贈ったものをしっかりと着こなしている。まさかスーツで来るなんて思わなかった。けれども当の本人は堅苦しい恰好が嫌いなものだから、「早く脱ぎたい」なんて言って、早くもネクタイを緩めようとしている。
「そんなに焦るなよ、夜まで待てって」
にやにやと意地悪く笑うイギリスをにらんで、香港は顔を赤くしながらその足を踏みつけてやった。
十九時にホテルのロビーな。
タクシーでの移動中に、イギリスが言った。そういえばこの人は、携帯電話と煙草とライター以外に何も持っていない。空港で声を掛けたときから、スーツを纏ったその身ひとつだった。
「あんたは?」
「…仕事抜け出してきてるんだ、今から戻る」
さっきから鳴っている携帯電話は彼の上司からだろう。携帯を開き、電話に出るのかと思えば電源を切って上着のポケットに戻した。
「出なくていいの?」
「今日は質問ばっかりだな。どうせ今からまた会うんだから平気だ」
「忙しいんだな」
二人を乗せたタクシーはロンドン市内を走る。窓の外を見ているイギリスの目には、うっすらと隈が浮かんでいた。どうやら睡眠もあまり取れていないらしい。忙しい時期に来てしまうなんて、悪いことをしてしまった。
「…くだらないこと考えてんなよ。むしろ俺がそっちに行こうかと思ってたくらいなんだから」
イギリスの言葉に顔を上げると、彼はもう、窓の外を見ていなかった。
「案内してやりたかったが、まあ…大丈夫だろ。お前、英語も話せるからな。中心部のホテルだから、見てまわる場所は沢山あるだろう」
「じゃあ、十九時な。忘れるなよ」、イギリスはタクシーの運転手に短く何かを告げると(早口で香港には聞き取れなかったが、降りるとかそういった意味合いのことを言ったのだろう)、さっさと降りて行ってしまった。残された香港はどこへ連れて行かれるのだろうかと少し不安になったが、あのイギリスのことだ。このタクシーはしっかり香港をホテルに運んでくれるだろう。いいと言ったのに飛行機のフライトからホテルまで手配をする男だ。こっちの話など聞いてくれはしない。日頃の仕返しをしてやろうかと、悪戯心が疼いた。
香港を迎えに彼の滞在するホテルのロビーにやってきたイギリスは、昼間とは違いコートを羽織っていた。夜は冷える。今の時期に体調を崩したら仕事に影響も出るし、大事をとってのことだった。
腕時計を確認する。時刻は十九時十五分だった。時間にはルーズな男だが、イギリスを相手にここまで遅くなることがあるだろうか。あるいはあの香港のことだ。もしかしたら自分との約束を忘れているのかもしれない。携帯電話を取り出し履歴から彼の名前を見つけてコールするが、無慈悲にも《お客様のおかけになった電話は、現在電波の届かないところにいるか、電源が入っておりません》の音声が聞こえてくるだけだった。イギリスはフロントに向かうと、半ば強引に鍵をもらい香港のいる部屋へと急いだ。
「香港?」
がちゃり。ドアを開けて入ると、一番に彼のスーツケースが目に入った。そのままずかずかと部屋に入って行くが、香港の姿はどこにも見当たらない。まだ帰っていないのだろうか。夜のロンドンを一人で歩いているのかと思うと、ますます不安になった。けれどもイギリスは、ベッドの近くに彼の靴を見つけてその胸をなで下ろした。どうやら寝ているだけのようだ。長時間のフライトで疲れているのだろう。そういえば香港の都合も聞かずに勝手に飛行機のチケットを送り付けたことを思い山し、申し訳なく思いつつも来てくれたことに感謝した。背を向けた彼の寝顔を見ようとベッドにのし上がる。スプリングが軋む。だけどイギリスが見たのは、恋人の寝顔なんかじゃなかった。
「、うわっ」
「Welcome、ごくろーさま」
覗き込んだ彼の腕を掴んで引っ張ると、完全に油断していたイギリスは簡単にバランスを失い香港の寝ているベッドへと倒れ込んだ。キングサイズのそれは、男二人を載せてもまだ随分と余裕がある。
「…お前、観光は?」
「したよ。でもやっぱひとりで見てもつまんないから、すぐにホテル戻ってきた」
香港の手がイギリスの髪を撫でる。いつもは逆なのに、あまりにも愛おしそうに撫でてくるものだから、つい抗えない。
「夕飯って、どっか予約してあんの?」
「いや、お前と相談して決めようと思ってたから何も…」
「ふーん」
うとうと。久々のベッドと髪を撫でるやさしい手つき。今にも落ちてきそうな目蓋と必死に戦いながら、そこでイギリスはようやく香港の恰好に気付いた。
「なんだ、まだ着替えてなかったのか? スーツ、疲れただろ」
髪をいじっていた香港の手が止まり、するりとイギリスの首元に伸びた。ネクタイを掴み、一言。「You're joking、脱がしてくれるんだろ?」
余裕たっぷりの笑み、だけどうっすらと頬が赤い。先程までの眠気はどこかへ飛んでいってしまった。イギリスは自分の首元にある彼の手を取ると、指先にちゅ、と口づける。びくりと香港が身体ごと強ばったのがわかった。今夜は泣いて謝るまで許してやらない。
「仰せのままに、sweetheart」
だけど「その言い方古いんじゃない」、と指摘され、イギリスはいよいよ生意気なこいつを食べてしまおうと、香港のネクタイに手を伸ばした。
20100516
『ゴーストボーイ』