そんなこともあったね、と。
どんなに避けていようと、逃げきれないものもある。
時代の流れは、まさにそうだ。
俺が国として、守らなきゃいけないものは決まっている。
そして、あいつも国として守らなきゃいけないものはわかっている。
『契約成立だな。』
『ええ、これからよろしくお願いします。』
黒いサラサラした髪がふわりと揺れて、あいつは頭を下げる。
俺はごわごわした自分の頭を照れくさそうに掻きながら、『ああ。』と答えた。
あの時の穏やかな空気は今、何処にもない。
「久しぶりだな。元気、だったか?」
「はい、イギリスさんもお元気そうで。」
日本の笑みはいつ見ても思う、今にも消えそうなほど霧のように淡い。
そして、相変わらず目が合わない。常に伏せられた視線は最期までそうなのか、と俺は少し寂しくなる。
「…今日は、俺たちの新しい歴史の始まりだな。」
「・・・。」
日本は目を伏せたまま何も言わない。
「すぐに俺と日本、2国を含めた4カ国で条約が結ばれる。」
「・・・。」
「そしたら、俺たちはまた…。」
「本当に、そう、思ってらっしゃるんですか?」
日本の小さな声が部屋に響く。
「・・・。」
「日英同盟を組んだときと同じように4カ国条約が上手くいくと…そう、お思いですか?」
急に怒りがこみ上げた。
上手くいくわけがない、「太平洋に関する4カ国条約」は、日本を孤独にするための作戦でしかない。
そんなこと、俺は充分に承知している。
それでも俺たちは国として、それを受け入れる以外の選択肢があったのだろうか?
それは日本だってわかっているはずだ。
それなのに、
「…俺が、悪いのか?」
「そんなこと、言ってませんよ。」
「言ってるだろ!!」
思わず声を荒げた。
日本の静かな声は、感情が読めない。俺が勝手に罪悪感から責められている様に感じている。
そうだとわかりながらも、止められなかった。
「仕方が無いだろう!?俺たちは国だ!民を守るためには…お前を裏切る以外の方法を俺は知らない!」
俺だってお前と同じように苦しいし、悲しいんだ。
そう伝えたくて、でも言葉に出来ない想いが溢れて涙になって出てきた。
「俺は、お前を愛してる!抱いたのだって…っ。俺が、その時どんなに嬉しく感じていたか、お前は知らないだろう?」
『イギリスさん…。』暖かな笑みを浮かべた日本が俺の手を握ってくれたのが、遠い昔のように感じる。
もう、どう足掻いてもあの時は戻ってこないのだ。
「日本、俺の気持ちに嘘は無かった。本当だ…でも、仕方が無いんだ。」
足に力が入らなくなって、ボロボロと泣きながら俺は座り込んだ。
日本は何も言わないまま、静かに俺を見降ろしている。
でも、これで良かったのかもしれない。
日本が俺を嫌わないまま日英同盟破棄をしてしまえば、俺は自分を自分で許せなかっただろう。
どんな罵詈雑言でも構わない。俺が立ち上がれなくなって、打ちひしがれるくらい、傷つけてくくれれば良い。
それ以外に、どう償うことが出来る?
しかし、どれだけ経っても日本から俺への恨みごとは一言も無かった。
俺の情けない嗚咽が響く中、日本が小さくため息を吐く。
そして、次の瞬間、衝撃が頭に響く。
涙も鼻水も垂れ流したまま、日本を見ると、右手をグーにして震えていた。
「ほんっとに、貴方は…どうしようもない人。」
日本はそう呟くと、机の上にあった俺たちの同盟書を手に取った。
それを破けば、俺たちの同盟は破棄されたことになる。
日本は両手でそれを持ち、なんの躊躇もなく上下に切り裂いた。
ビリッという大きな音の後、俺の上に2枚に切られた同盟書がハラリと落ちてくる。
「にほん…。」
俺が目を見開くと、日本は余裕な目で俺を見る。
「こんな紙切れの、何が大事ですか?」
「俺たちの、同盟書だぞ。」
「だからなんです?」
日本は座ったまま立てない俺の目からまだ流れる涙をその袖で拭いた。
「いつまで泣いてるんですか、情けない。」
「なっ…。」
「言っときますけど、貴方を恨んでませんし、ましてや貴方の愛を疑ったことなどありませんよ。」
日本はそうハッキリ言うと、クスッと笑った。
「此処最近貴方からの訪問が途絶え、勇気出してお電話いたしましたのに、居留守を使われて…その方が私には今回の同盟破棄よりも堪えましたよ。」
「そ、それは…俺たちは今回のことで、今まで通りには・・・。」
「だから、その意味がわからないのです。」
日本は呆れたように俺の頭を撫でた。
「貴方は私を愛して下さいました、私も勿論、貴方を愛しています。」
「それなのに、何を恐れていらしたんですか?」
俺は答えられず、口ごもる。
日本は腰を下げて座ったままの俺の頭をぎゅっと抱きしめた。
「アメリカさんの考えてることなんてお見通しなんですよ。あんな人、馬に蹴られてしまえば良いのに。」
俺の頭を撫でながら、日本は額にキスをして微笑む。
真正面から見た日本の視線は驚くほど強かった。
「この先は私にとって苦しいものになるでしょう。貴方とも敵同士になる日が来るかもしれません。それでも、私は負けませんよ。いつかまた、貴方と居られる日がきますから。」
「日本・・・。」
「私たちの関係は、紙切れで結ばれていたものでしたか?」
日本が何時かのように暖かな笑みを浮かべ、俺の手を握る。
「恐いことなんて、何もありませんよ。だって私たちは愛し合った仲なんですから。」
最後に慈しむように俺に口付けた日本は、一瞬だけ名残惜しげに俺を見て、あとはもう、振りかえることは無かった。
作品名:そんなこともあったね、と。 作家名:阿古屋珠