日差しと氷と、君の熱
「…暑い、な……」
エーリッヒが呟いたのを、一番傍にいたシュミットは聞き逃さなかった。
おそらくそれは、誰かに聞かせるための種類の呟きではなかったようだが、思わず漏れてしまったからこそ不用意で、シュミットの耳に入るのに十分な大きさだった。
「確かに、今日はこの時期の割には暑いな」
「………、声、出てましたか?」
「ああ。出ていたぞ」
はっきりとな、小さく笑うとエーリッヒが困ったように眉根を寄せた。
「………すみません」
「なぜ謝るんだ」
「練習中なのに、集中していない証拠です」
「そんなことは、ないだろう」
誰が真面目なエーリッヒが練習を疎かにしているなどと考えるものか。
真面目すぎてかえってそこが心配なくらいだというのに、と思うが、つまり、それほどに暑さを感じているということか。
もともとエーリッヒの故郷のハンブルクはドイツの中でも北に位置する、寒さの際立つ地方だ。
シュミット自身、エーリッヒを訪ねて何度も行ったことがあるが、冬は雪が深いし、夏の気温も南の地方に比べれば上がらない。
普段の諸々の生活の我慢強さで言えばエーリッヒの方に確実に軍配が上がるが、生まれ育った環境に左右されるこんなことにまでそれを期待するのは、さすがに酷というものだろう。
誰にだって、弱いところはある。
「……少し、休憩を入れるか」
考えて、ミハエルに声をかけた。
彼はちょうどコースを一周し終えて、マシンを手に取ったところだった。
「リーダー、少し休憩を入れませんか?」
大切そうにマシンを抱えたミハエルが振り返る。
「うん、いいよ。ちょうど喉が渇いてきたところだったし。……アドルフ!ヘスラー!」
ミハエルの一声に、コースの途中で連携技の練習に取り組んでいた二人が顔を上げた。
「休憩!ちょっと休もうか!」
Ja,と二人分の応えが返る。
マシンを止めて何事か話しながらこちらに向かってくる二人を待ちながら、シュミットの隣でエーリッヒが小さくなった。
「……ありがとうございます」
すみません、ではなく、ありがとう、だったのは、相当に休憩がありがたかったのかもしれない。
シュミットは笑顔をひとつひらめかせてそれに答えた。
今日は少し気温が高いので、とエーリッヒが用意したのはアイスティだった。
透明なグラスに琥珀色の液体が透けて、気泡のない綺麗な氷がからからと音を立てている。
シロップが混ぜられているらしいそれは、冷たい清涼感とほどよい甘みを口中に広げ、喉奥から体中に染みこむようだった。
向こうのテーブルではアドルフとヘスラーがミハエルを前に、マシンの状態がどう、オフロードに対応するにはどう、と話し込んでいる。
さっきの練習も連携も、オフロードコースの攻略を目的としたものだったから、実際に走らせた3人で様々な検証をしているのだろう。
一方、シュミットが前にしたテーブルには、乗せられたグラスは二人分。
ひとつはもちろんシュミット自身のもので、もうひとつは、
「大丈夫か?」
もうひとつのグラスの主、エーリッヒは、心なしかぐったりとして椅子に座り込んでいる。
暑さに強くないのは知っていたが、今日はどうやら疲れでもたまっているのか、いつも以上のようだ。
「すみません、」
もう、エーリッヒのグラスはすでに空だ。
水分が足りないのなら自分の分も飲ませれば、と思ったのだが、エーリッヒはそれをやんわりと断った。
「大丈夫ですから」
「でも、まだ暑いんだろ?」
「少しよくなりました」
もう大丈夫です、という言葉が、あまり信憑性をもたないことを、シュミットはよく知っている。
基本的に無理をするやつなのだ。
さすがに倒れるまでに無理をしているわけではないだろうが(倒れればかえって迷惑をかけることは分かっているから、本当に限界が来たときはちゃんと言うのだ、シュミットには)、それでも無理をしているのは一目瞭然。
こういうときに何故か意地を張る傾向にあることもよく知っているシュミットは、どういう手段が一番効果的なのかも、知っている。よく。
ぐいと冷たい紅茶の入ったグラスを煽る。
喉を通りすぎる冷たさに、心地よさが増す。
すうと汗が引くようで、疲れまでも引いていくようだった。
身を沈ませたまま、目を閉じてはたはたと掌で自分に風を送っているエーリッヒをちらりと見る。
額にうっすら滲んだ汗は、エーリッヒがまだまだ身中に熱を抱えている証拠。
だったら、素直ではない幼馴染みを救うのは、付き合いの長い自分以外にいるはすがない。
最後の一滴まで搾り取るようにして飲み干すと、からからと氷が落ちてくる。
唇でその雪崩を止めて、比較的大きめのひとつをこくりと口に含んだ。
グラスを置くと、こと、と音がした。
グラスのかいた汗で湿った指先をそのままに、腕を伸ばす。
すっかり椅子に身を任せて、深く腰掛けているエーリッヒの手首を、くいとつかむ。
濡れた指先で触れるそこは、上気していて、やはりいつもより熱い。
身をよじって自分の方に向くシュミットに、エーリッヒが目を開けて首を傾げた。
「シュミット?」
すばやく顔を寄せる。
驚いて見開かれた瞳がそのまま視界いっぱいに広がって、顔同士の距離がゼロになった瞬間、舌で絡め取った氷のひとかけをエーリッヒのそこに押し込んだ。
冷たい氷がかちりと音を立てて歯に当たる。
押し込んだ際に僅かに触れた舌先が、いつもより熱い気がしてシュミットはおかしくなった。
身体の熱というのは、こんな所にまで籠もるものなのだろうか。
だとしたら、別のところも、すべてが熱いのだろうか。
それを、確かめてみたい気も、する。
びくりとエーリッヒが身動ぎした瞬間にはもう唇を放し、素知らぬふりで前を向いた。
春というには幾許か熱すぎる日差しを燦々と受ける木々が、そよ風にさわさわと揺れている。
ちらりと視線を戻すと、下半分を覆うように顔に手を当てて、エーリッヒが赤くなって固まっている。
「少しは冷えただろう?」
エーリッヒが何か言うよりも早く、そんなことを嘯いた。
勢いよく何か言おうとして、はっとして周りを見て、ミハエル達3人の談笑を目に留めてかエーリッヒが乗り出しかけた身をまた沈めた。
大きな声を出せば、何も気付いていない風の彼らに怪訝に思われると思ったのだろう。
「………………かえって、熱くなりました」
どうしてくれるんですか、と氷を含みながらの籠もった声と、恨みがましい目つきで睨まれて、シュミットは、はは、と口の中で笑う。
どうしてくれるんですか、なんて聞かれたら、答えは決まっている。
「練習の後でなら、」
「………?」
「取ってやるぞ、責任を」
「………!」
更に赤くなった顔を、に、と笑って眺めていると、
「シュミット!」
ついには声を荒げたエーリッヒに、向こうのテーブルの3人が振り返った。
エーリッヒは慌てて何でもありませんからと手を振ったが、3人は顔を見合わせて、シュミットとエーリッヒを二・三度見比べて、それから肩を竦めた。
どうせまたいつものじゃれ合いだろう、と、アドルフ辺りの半分呆れた顔が告げている。
作品名:日差しと氷と、君の熱 作家名:ことかた