低気圧のかたつむり
毎年毎年、飽きもせずやってくるこの季節が恨めしい。髪結いという職業上、他人の髪の状態というものがついつい気になってしまうものなのだ。
けれどもこの時期皆の髪は一様に纏まりを失う。あらぬ方向を向く後れ毛や、いつにも増してかたちを留めない癖毛の誰か。右手がその髪を結いたい結いたいと疼いているのを感じる。しかしどうしても、いくら整えても湿度には勝てず、再びすれ違うときには元通りになっているのだろう。そう思うと自分も所詮はその程度の腕前でしかないのかと、じめじめとした空気に馴染むように鬱々とこころは沈んでゆくばかりなのである。
止まない雨を横目に見ながら、足取りも重く長屋の廊下を歩いていると、隅で丸まっている人影を見つけた。この辺りは四年生の長屋であり、人影にしっかと抱きかかえられている大きなシャベルを見ればそれが誰だかはすぐに判った。
「綾部、どうしたの」
うずくまった人影はぴくりとも動く気配を見せない。まさか人違いか、とも思ったが微かに上下している肩の動きに安堵する。眠っているらしい。
さて、起こすべきか起こさぬべきか。判断できずひとまず隣に腰を下ろす。
髪を見てしまうのは職業病といってもよい。ゆるく波打つ長い髪は、この重い空気の中にあっても不思議と軽やかに見えて少しこころが安らいだ。普段彼の振る舞いを見ている限り、何か特別な手入れをしているようには見えなかった。周りの人間が(必要以上に)目立つ真っ直ぐな髪の持ち主であるから普段は目立たないが、天候に左右されぬのも貴重ではないかと思わされる。
ついつい手を伸ばしてしまい、指先がその髪に触れたか触れないかというときに綾部はごろりと寝返りを打ち、勢い良く柱に頭をぶつけていた。鈍い音、いやはや痛そうである。うっすらとその双眸が開かれたのを見計らってから声を掛けた。
「…、大丈夫、」
「頭が痛い」
「そりゃあ、あれだけ勢い良くぶつけたから」
「じゃあなく、て」
話によれば、彼は雨の日には決まって頭痛がするのだという。この湿気がいけないと苦々しく語る、そんな姿ははじめて見た。
再び床板の上で体を伸ばし、板目に染み込んでしまいそうなくらいにぐったりと横たえている。
「俺もねえ。嫌いなんだ、雨」
「そう、」
「髪、結ってもいいかな」
「どうぞ」
(ご自由に)か、(ご勝手に)か。きっとそんなことばが続けられるはずだったのだろう。こちらがやり易いように体勢を変えるつもりもないらしくじっとうずくまったままでいう。
指先を髪にくぐらせると暫くご無沙汰していた感覚が蘇る。解いて広がる髪もたやすく纏めることができ、櫛を通せば滑らかに整う。綺麗に結い上げたすがたかたちに満たされた。
「うん、できた」
そういうと、綾部はゆるりと首の角度を変えて、静かに呟いた。
「どうも。ちょっと気持ちが良かったよ」
そしてすぐにまた丸くなり、小さく寝息を立て始める。
相も変わらず雨は降り続いているけれど、今日はまだ部屋に戻る気にはならなかった。隣で目を覚ますのを待つのはどうだろう。結われた髪を食堂の皆に見せてやりたいものだと、思わず笑んでしまうことをこらえられなかった。