傷の舐め合い
とたんに、やや気にかける声色と、赤いマントを片手に持った源田が追いかけてきた。礼を言って羽織るのもそこそこに、別棟へと急ぐ。廊下に敷かれたリノリウムがねずみのように鳴いた。直射日光の当たるグラウンドと比べ、さすがに校舎は辛い暑さとまではいかない。帝国学園の指定鞄を2個、腕のなかに手早く抱えなおし、保健室のドアを開ける。
消毒液のにおい。
下刻時間のせまった保健室には、保険医すらいなかった。白っぽい部屋のなかに4床のベッドは漂うようにある。ほかはもぬけの空だというのに、窓側のベッドだけ、やはりこれも白いカーテンが囲まれている。まるで篭城だ、鬼道は笑った。カーテンの隙間からそっと覗くと、銀髪に朝雨を詰めこんだような髪色の少年が眠っている。右目のアイパッチは床につく時も外さないらしい。鬼道はカーテンをたぐった。換気にと、横の窓をきもち開けてやる。いっせいに蝉の鳴き声が割り入ってきた。
帝国学園サッカー部所属。参謀。フォワード。
それが、中学2年になる佐久間次郎の立ち位置だ。メンバーにおいて、フォワードである佐久間は攻撃そのものだった。
相手チームのゴールネットへ、白と黒の球ひとつを捻じこむことにこそ意義がある。少年は嵐のようだった。どこまでも勝ちにこだわり、そしてなにより鬼道のためにこだわる。自分に見合った能力以上へ無茶をしたがるきらいのある佐久間は、その代償としてひんぱんに帝国学園の保健室にお世話になった。
そして、佐久間たちメンバーが負傷すると必ず鬼道がつきそう。チームのキャプテンとして、また、友人として。春奈の兄として年長者をつとめてきたことも関係するのか、それと鬼道自身すら自覚のない、もっと家庭の核に理由があったのか、メンバーの負傷に関して鬼道は黙っていられなかった。
今日おこなった早朝練習の後、佐久間の顔色が悪いのは気づいていた。あの時から辛かったはずだ。しかし、あえてこの少年に声をかけずにいた幼いゲームメイカーは考えあぐねている。チーム一丸の願いの扱いについて。あらゆるものと天秤にかける時、「勝つこと」には果たしてどれほど価値をあたえればいいか。強く願うべきだ。どうしても、欲しい。しかし、盲目にはどんな盲目にせよ犠牲が絶えない。ちからを図らねば、じきに歯車が壊れる。四時間目の授業中にとうとう不調をうったえた佐久間は、それからずっと保健室で休んでいた。「軽い熱中症だったみたいね。ここでしばらく様子を診ます」昼休み、慌てて顔を出した鬼道に、保険医は退屈そうに教えてくれた。
「……きどうさん?」
佐久間がこちらを見ている。
物思いにふけると没頭するたちの鬼道は驚いて顔をあげた。ぬるい風が頬をなでる。今日は暑い。ベットの脇で丸椅子におさまる、小さな、それでいて自慢のキャプテンを、佐久間は見ていた。
「よかった……起きたか、佐久間、気分はどうだ?」
心なしか充血した目をした佐久間が、
「鬼道さん」
「なんだ?どうした、」
「もっと、こっちに」
まだ辛いのだろうか。より床の少年に近づこうと頭を傾げると、そのまま佐久間に手を引かれた。
「ほしい」
顔と顔がぶつかると思ったとき、真っ赤な舌がちらついた。
目をつぶっていた。堅く。
じっとしているのが最善の手段だと思ってのことだ。ただ、それが成しえたのは少しのあいだで、耳に襲う聞きなれない音に、たまらなくなって目を瞠った。鬼道はなにかが崩れる心地で、つぎは口を結ぶことに必死になった。じゅくじゅく、水気の含んだ音がする。自慢のドレッドロックスの成れの果てを視界のすみにとらえた。佐久間は鬼道のからだの輪郭をたどるようにして触ってゆく。触るだけで何もしない。鬼道はいっさい抵抗をしなかった。過去に一度、同じ状況に陥ったことがあったから。サッカーで失態をすれば、傷つけば、佐久間はこういうことをする。手を握ってやれば、背を撫でてやればいいか、鬼道は佐久間の手に自分の手を重ねてみたものの、混乱と焦りでただむなしく押しつけるだけで、握るに至らない。手では足りないらしく、佐久間は歯で鬼道のドレッドを口に含む。そのさまは、さながらえものの肉を裂く肉食動物。遠い国の神話には、ドレッドに女神を閉じこめた神がいたのだという。ならば、このドレッドをほぐして神を逃がす佐久間はなんだろう。物言えぬけものか。首筋を舐められ、後ろから抱えられていた背が泡立った。腰が浮く。
「お、い……佐久間!」
しかし佐久間はすぐに首から離れていった。鬼道の髪に顔を押し付けキスをする。そのまま髪を噛む。手のはらで脇腹を撫であげる。髪からつたわる痛みと、上体を這いまわる掌のなかで、鬼道はけものが飢えをおこす中核だけが気がかりだった。飢えとかなしみは、よく似ているとも思った。佐久間の掌はおそろしいほど饒舌だ。ほしい、ほしい、ほしい、と鬼道の指のまたをすべって絡んでくる。二人分の熱が触れ合って乗算されて、今にも溶けだしそう。
首筋に冷たい違和感を覚えた鬼道は思わずひくついた。
「……、ひっ」
声が出る。涙なのか唾液か、頬にはもはや判断のつかない水滴がはりついていた。天才とまで謳われた自分ではあったが、実際のところ、チームメンバーも満足に気づかってやれないのだ。なんとも情けないものに感じる。
佐久間が泣いたのは、ほんの少しの間だけだった。
「落ち着いたか?」
頷く佐久間を見て、純粋にほっとした。強く願うべきだ。どうしても、欲しい。しかし、盲目にはどんな盲目にせよ犠牲が絶えない。ちからを図らねば、じきに歯車が壊れる。まさに傷の舐め合いだな、そうしてふたたび物思いにふける鬼道は、やさしく嬲られているのだとはいまだ知らない。
20110214改訂