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そう、すべてはあなたのために

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私には、遠く及ばない綺麗な人が、今私の隣にいる。

 庵理くんは今、私の部屋にいる。
 私のことをマリーだとか、姫だとか、言い続けていた庵理くん。私と昔会ったことがあるみたいなんだけど、私は誰だか全然覚えていなくって、それを告げると庵理くんは少しだけ寂しそうな顔をした。
 そんな始まりから暫く経って、結局私は庵理くんに絆されてしまって今に至る。一応、恋人同士?っていうのかな。こういうのって。
 庵理くんは私を後ろから抱っこするように座っていて、両手が腰に絡んでいる。最初は落ち着かなかったこの体勢だけど、最近はこの体制が一番落ち着く。庵理くんに包み込まれているようで、ホッとするんだ。大体、庵理くんは腕の中の私が何をしているのかはあまり気にならないみたいだし。雑誌を読んでも、テレビをつけても怒らない。たまに、少し悪戯してくるのが困りものといえば困りものだけど。
 今日も私は庵理くんの腕の中で、雑誌を読んでいた。春色のコスメティックがずらりと並ぶ。たまたま開いたページでは、ネイルの特集をしていた。薄いピンクに、花模様が描かれている。可愛いなあ、こういうの。
 あまりにも食い入るように見入っていたせいか、後ろから庵理くんが話しかけてきた。耳元に囁かれるような言葉に、思わず身体が震える。
「…マリー、ネイルアートに興味があるの?」
「えっ、うん…少しね」
曖昧に言葉を濁す。正直、手にはあまり自信無い。普段は薄いピンクがかった透明マニキュアが中心で、他の色も持ってるには持ってるんだけどあまり可愛く塗れなくて使っていない有様なんだ。庵理くんは、「これなんか、マリーに似合いそう」なんて、さっきから見入っているピンクの桜模様のネイルを指差している。あ、庵理くんの手、綺麗だなぁ…。
「…庵理くんの手、綺麗だね。いいなあ」
そんな手に生まれてきたかったな、と思わず零す。と、庵理くんは雑誌の下にある私の手をすっと握った。その動作は思わず雑誌から手を離してしまいそうになるほど鮮やかで、私はもう片方の手で慌てて雑誌を支えた。雑誌から離れて庵理くんの手の中に収まった右手は、小さくて、子供みたいな私の手。
「マリーの手だって可愛いじゃない」
「そんなことないよ、指は短いし、小さくて…」
「僕はこの手、好きだな。あ!マリー、マニキュア持ってる?」
「マニキュア?…ええっと、持ってないこともない…けど…」
私は一旦雑誌を閉じて立ち上がると、コスメ一式を閉まってある引き出しを引いた。中に入っていたのは、三色のマニキュア。いつも使っている薄付きのピンクと、フレンチネイルをやろうとして買った白、濃い目の赤の三色だ。
「これしか持ってないんだ…」
「充分だよ。はい、手出して」
庵理くんは机の隅にあるミニテーブルを手にとると、私との間にとん、と置いた。え、まさか。私は庵理君を窺うように見た。
「やってくれるの?」
「うん、僕に任せて」
有無を言わせぬ万遍の笑みに、私はおずおずと右手を差し出した。庵理くんは私の手をとると、マニキュアの筆先を器用に使って色を載せていった。私の指には既に薄付きのピンクが塗られているから、その上から白、赤と少しずつ重ね塗りをしていく。
「庵理くん、本当に上手いんだね…」
「そう?マリーの役に立てて、嬉しいよ」
それでも、私の小さい爪では出来ることは限られてしまっていて、小さな花が一つずつ角度を変えて鎮座するのみとなった。所々にハートやドットの模様も入れてくれて、本当に可愛い。右手が終わったら、庵理くんは左手も塗ってくれた。
「わ…可愛い」
「でしょう?やっぱり、マリーにはピンクが似合う」
「えへへ、ありがとう……でも、何かショックかも」
そう言うと、庵理くんはきょとんとして小首をかしげた。何で?と、何の邪気も無い表情で聞かれる。綺麗に仕上がった爪をミニテーブルの上で乾かしながら、庵理くんを見上げた。
「だって私、女の子として庵理くんに勝てないことだらけだから」
「そんなことないよ。僕は所詮男だし」
「そうだけど」
「それに」
そう言うと、庵理くんはもう爪の乾いている右手をそっと手に取った。慈しむように、ゆっくりと手の甲を撫でる。くすぐったくて、身体が震えた。庵理くんは、それに気付いてふふっと笑うと再び私の手を撫でた。あれ、からかわれてる?私。
「マリーのためだから」
「私の…?」
「マニキュアが上手なのも、髪を結うことが出来るのも、全てマリーのため。君は出来なくてもいいんだよ、僕が全部やってあげられるから」
あまりにも当たり前のように言うから、私は少し可笑しくなってしまって、思わず吹きだしてしまった。

「…なんだか私、お姫様みたいだね」
「そうだよ、マリーはお姫様だから」
その言葉に、思わず息が詰まる。理事長に言われた言葉が脳裏を過ぎる。私は、お姫様じゃない。あの人は――そう言ったんだ。
 反射的に苦笑して、私は何とか言葉を濁す。
「……でも、王子はそんなにお姫様に尽くさないんじゃないの?」
「うん、だから僕は王子じゃない。お姫様と結ばれる運命だけど、王子ではないから」
庵理くんはもの哀しげに笑うと、すっと私の右手に口付けて離した。その表情が妙に哀しくて、切なくて、私は「庵理くん」と、名前を呼んだ。私の名前を呼ばない彼に、私は自分を指差して座ったまま身を乗り出す。
「なに?」
「庵理くんは、王子様だよ。…私の」
そう呟くと、恥ずかしくなってしまって私は俯いてしまった。わ、何言ってるんだろう私。そもそも私は、お姫様じゃないというのに。庵理くんがふふっと笑った声が聞こえると、私は顔を上げた。同時に、頭を一度優しく撫でられる。微笑んだ庵理くんと、かちと目が合った。
「なあんだ、キスしてくれるかと思ったのに」
「っ!もう…」
かあっと顔が熱くなって、そのまま再び俯く。庵理くんの顔、見ていられない。庵理くんの手が、優しく私の輪郭を撫でる。ゆっくりと、慈しむように。どきどきする。指先から熱が伝わって、頭の中、沸騰しそう。
「マリー、顔を上げて」
庵理くんがそう言うと、私はゆっくりと顔を上げた。庵理くんの顔が近い。ゆっくりと目を閉じると、唇が触れ合った。庵理くんのキスは、上品で、優しい。小鳥が餌を啄ばむように、私の唇を銜える。ぺろりと口の間をなぞられて、思わず背筋が震えた。ふっと唇が離れて、私はゆっくりと目を開けた。目の前で庵理くんが微笑んでいる。その表情を見た瞬間、心の中に暖かい気持ちがどろりと流れ込んできた気がした。特に、何を言うでもなく見詰め合うと、庵理くんの表情が少しだけ変わった。少しだけ、困ったような表情。

「何で、こんなに可愛いんだろう…籠にでも入れておきたいなあ」
「…捕まえておきたい、ってこと…?」
「その通り。そうすれば、何処へも飛んでいかないのに…」
庵理くんはミニテーブルをどかして、私の手を引いた。身体が腕の中に収まる。何をするでもなく、そのまま抱きしめられた。私はその胸元に顔を寄せて、心の中でそっと呟いた。これ以上口に出すのは、流石に恥ずかしくて出来ないんだけど。


(私は、どこへも飛んでいかないよ。庵理くんの、そばにいるよ)



 暖かい両腕のぬくもりの中で、私はゆっくりと目を閉じた。