歪曲
その瞬間のことを、今でも私は覚えている。
恐怖より痛みより何より、自分を支配したその不思議な安堵感のことを。
逃げようと思えば逃げられたのだと思う。
星によって彼らの来訪は告げられていたのだし、星女神の巫女なんて、私じゃなくてもよかった。レナやカティアのように、ただ走って逃げれば、それで生き永らえることができたのかも知れない。
ただ、私はそれをしなかった。
別に死を望んでいたわけではない。ただ、ただ怖かった。近づいてくる星。生き別れになった、狂おしいほどに愛おしい、私の半身の星。着実に私までの距離を詰めてくるそれに、その時の私は狂わんばかりの恐怖を覚えていた。
怖かった。きっと麗しく育っているのであろう彼に、醜く育ってしまった私の心を見られることが。
私は逃げたのだ。
私の死によって、彼を縛りたかったわけではない。
けして彼が絶望する様を見たかったわけではない。事実冥府の底からのぞき見た彼の絶望の表情は深く深く私の胸をえぐったし、何よりその悲痛な叫びは耳を塞いでしまいたくなるほどだった。
乗り越えてほしかったのだ。
私の死を忘れて、恋をして、家庭を持てばいいと思った。そのほうが幸せだと思った。確かに彼の横に私ではない人がいる情景に、限りない嫉妬は覚えたけれど。乗り越えてくれると信じていた。
私を襲ったのは絶望だった。
乗り越えられるわけがなかった。私の涙が止まらないように。彼は運命を呪い憎み、そして剣を手に取った。私はそれを望んでいたわけではない。復讐なんて、望むはずもなかった。でも、彼を責められただろうか。
彼が剣をとった原因は、ほかならぬ私にあるというのに。
流れる涙は止まらなかった。生きていながらどんどん人間としての部分を失っていく彼が憐れで哀れでたまらなかった。私はここにいる、と冥府の底から叫んでも、届くはずもなかった。彼に幸せになってほしかった。無理な話だというのに。
そして復讐は成された。
望んでいたわけではない。本当なのに。
私の胸にあるのは、歪んだ満足感だった。