キスをしよう
「願わくば、お前のうえに永遠に、幸福が降りつづけますように」
決まりきった文句なのに今まさに初めて聞かされたような、それは心からつむがれた祝福だった。まっすぐにこちらを見て、俺の好む美しい古い発音で、なんだってんだちくしょう。お前は誰だ。
俺はしらない。こんな穏やかに光る緑の目元も、触れそうで触れない、きれいな節をもつ指が、自分の頬をかすめる温度も。やわらかな中低音が、他でもない自分に向けて発されるのも。ぜんぶぜんぶ初めてのことだった。
「おい…?」
いやに、いさぎがよいな、と思った。それにしても。これが最後にしても。
今までさんざ罵詈雑言にまみれた泥臭い髪の掴み合いをしていたというのに、本当に本当の最後となったらお前はそんな顔をするのか。そんな声でそんなに真摯に俺を見るのか。なんでお前は、絶対に素直にならなければいけない場面でだけ、本当にあっけらかんとその心のままに振る舞えてしまうのか。
普段あれほど子供じみてわかりやすくて涙もろいくせに、いきなり全ての人間臭さを捨て去って、お前は俺に、今、なにを言ったんだ?
グレーのコートの端が翻る。質感どころか厚さまでもこの手が覚えているその生地を、すんでのところで掴めなかった。
最後にイギリスは笑った。慈悲深くなく、悪どくなく、ただ満足げに笑った。
「じゃあな」
黒い黒いカーテンに砂金を少し撒いたような、真空の海に踏み出してゆく。きれいに磨かれた革靴は、あっという間に銀河をすべる。
「って、お…」
まさか。まさかこれが本当に。
「イギリス!!」
一秒後には、グレーの背中はもう豆粒になった。
待ってくれ。
待ってくれ。
待ってくれ。
待ってくれ。
俺はまだ何も言ってない。
お前に満足されるようなことはまだ何も。
†
恐怖につつまれながら、見慣れた部屋の風景に戻ってきた。
背中は寝汗でぐっしょりとしている。気持ちが悪い。
呼吸は落ち着かず、いまだに頭の横から首の後ろまでがへんなふうに緊張している。いつもは目が覚めてまず天井が見えるはずなのに、今日は部屋の壁が眼前にせまっていた。
フランスはただ、恐ろしかった。
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夢見が悪かったフランス。20/11/08