僕のかわいい猫
たずね言葉でありながらも、まるでそこに人が居るのをわかっているかのような口調。
もっと言えば、誰が居るのかまで、わかっているようだ。
「新城中尉殿?」
獣臭い舎の奥から、透き通るような声が返ってきた。
思わず頬が緩む。
声だけで自分の存在をわかってくれたのだ。
すぐ様こちらに駆け寄ってこないとなると、手が離せないのであろう。
新城は声の方へ緩んだ頬を引き締めながら歩いた。
舎の一番奥突き当たり。蝋燭の灯りの元で小さな影が動いているのが見えた。
「野間口少尉」
新城はゆったりとたずねた。
「千早の具合はどうかね」
はい、中尉殿。と純は千早の腹をさすりながら答えた。
「今、ようやく薬を飲んでくれました。時期に効いてくるでしょう」
純の額には汗が滲んでいる。
「そうか」
「千早は敏感な子ですからね。餌に薬を混ぜてもすぐにわかるので苦労しました」
「一体、どうやって飲ませたのだ?」
新城は不思議な顔をしてみせた。
すると純は、ふふっと悪戯っぽく笑い、腰元の鞭を手に取った。
「目には目を……軍に入れば当然のことです。千早も軍人ですから」
しかし、千早の身体には傷一つついていないことから、すぐに彼女なりの冗談とわかった。
新城は口元を少し上げ、微笑した。
野間口純は陸軍剣虎兵学校を今年卒業したばかりの新品少尉である。
小柄で、十七歳の少女らしく幼さの十分に残る顔している。
性格はその顔付を裏切ることなく明朗活発で、時折、可愛らしい悪戯を仕掛けては、ころころと笑う娘だった。
彼女は独立剣虎第二大隊付きの連絡将校で、剣牙虎飼育責任者の任も兼ねていた。
これは剣虎隊へ配属された新品少尉が初めに担当する任務である。
「君の猫はどうした」
新城は周りを見回しながらたずねた。
「蒼銀でしょうか?」
「ああ」
純にあてがわれた雄猫である。
生まれた時から、他の猫に比べ一回り程体が小さかった。
そのせいだろうか、警戒心が異常に強く人に全くなつかない。
「まだまだ。この通りですよ」
純は少し困った顔をすると、袖をまくって見せた。
彼女の細い腕には、大きな引っ掻き傷ができていた。
白い肌と対照的な赤い血が滲んでいる。
「……手当てを」
新城は驚き口を開くと、純は、大したことありません。とかぶりを振った。
「あの子と分かり合えるのなら、これくらい」
真っ直ぐすぎる瞳が新城をとらえる。
少女ゆえのものではない。信義の眼差しだった。
新城はこの瞳が好きだった。
そして、この少女が好きだった。
「無理をするのは好みでないな」
「はい。ですが、あと一歩の所まで来ています。以前は触れさせてもくれませんでしたから」
純は無邪気な顔を向け更に続ける。
「それに蒼銀は千早に並ぶくらい有能ですよ。いえ、それ以上かもしれません」
「僕も同意見だ」
新城は素直に頷いた。
本当にそう思っている。
「中尉殿にもそう言っていただくと嬉しいです。だから蒼銀を見捨てないで下さい」
まったくこの娘は。と思う。
何故僕なんかに自分の大切な猫の運命をゆだねるのだろう。
一中尉。しかも軍内では、嫌われ者の僕に。
「大隊長殿にも僕からよく頼んでおく」
新城は答えた。
だから手当をしろ。しかし、そう言っても彼女はまだ拒んだ。
将校が手当を受ければ記録が残る。それが何らかの形で上の耳に入るのを純は恐れていた。
確かに蒼銀については、上から始末しろ。との意が何度もおりていた。その度に純はあれこれ手を尽くして回 避してきた。
しかし、さすがに怪我を負わされたとなれば、処分は免れないであろう。
「猫を大事にするのは大いに結構だが、自分のことも大事にしてくれないか」
新城は少し強い口調で言った。
しかし、それに負けないくらいのしっかりした声で純はこう答えた。
「はい。中尉殿。ですが、私は猫達の上官でもあります」
「それを言うならば、僕は君の上官だ。これは命令だ。自分の身も案じろ。君が倒れたら誰が猫の面倒を見るのだ?いいな」
「は……」
まだ納得していない。
純粋で真っ直ぐであるがゆえに、曲げるという事を無意識に行っている。
こういう人間は軍ではあまり歓迎されないが、個人的には嫌いではない。むしろ好みである。
とは言え、彼女の傷はなんとかせねばならない。
「療兵に手当てしてもらう事を拒むのであれば、僕がする。それなら問題なかろう?」
新城はそう言って、純の腕をとり歩き出した。
「そ、そんな。申し訳ないです。自分でやります」
「利き腕に包帯を巻くのは容易ではないよ」
「あの……これも命令でしょうか?」
足を止める新城。
振り返ると、純が上目使いにこちらをうかがっていた。
「命令でなければ、君は拒むと言うのかね?」
少し拗ねた声の新城。
「そういう意味では……ちゅ、中尉殿の意地悪」
純はそう言って、困ったように頬を膨らました。
まったくこの子は。
なんてかわいい顔をしてくれるのだ。
「猫と同じ。と言うのは適当でないかもしれない」
新城はその膨れた頬を優しく撫でた。
「しかし、大切にしたいと思う者が傷ついていたら、介抱したくなるのは当然の感情ではないのかな」
純の頬がみるみる染まっていった。
そして、はい。と小さな唇を震わせた。
「結構だ。大いによろしい」
僕のかわいい子猫。
新城は純を引き寄せると、口付けを落とした。
千早の嫉妬したような鳴声が聞こえた。