さよならの意味
当時、戦務幕僚殿は私にそう呼ばせた。
彼も私のことを「楓」と呼んだ。
勿論二人きりの時だけである。
つまり、私達はそういう仲だった。
雨の降る肌寒い日だった。
皇都内の人気のない茶屋で、彼は言った。
「仁科中尉」
「はい。市川大尉殿」
客は私と彼だけ。
それなのに、お互いの名を呼び合わなかった。
「剣虎隊へ異動する」
「そうですか」
「伊藤少佐殿についてゆくことにした」
「は」
私は顔色を動かさずに応じた。
勿論、残念だと思う気持ちは率直にあったが、全てにおいてそれを決めるのは彼であり、この数ヶ月間、彼が悩みに悩んで出した結果をとやかく言う資格など私にはない。
もっとも、軍などに身を置いていると、上の決定に有無を唱えるという概念は消える。
よって、私はこれといった戸惑いもなかった。
彼の決断をそれのごとく理解した。
「だから――」
彼の口が再び開く。
「もう終わりにしたい」
予想外の言葉に私は沈黙した。
そして、彼にたずねた。
「それは、私達のこと……ですか?」
すると、彼は目を伏せながら頷き、こう答えた。
「俺は器用ではないんだ」
彼の気持ちは即座に理解出来た。
剣虎隊への異動は、私への裏切り行為だと思っているのだろう。
裏切りの上に男女の仲を続ける器用さなど、自分は持ち合わせていないと。
彼らしいと思った。
物事を複雑に考え過ぎているのか。
それとも、真っ当に考え過ぎているのか。
どちらかはわからないが、それが彼なのだ。
私はそんな彼が好きだった。
だから、そうでしたね。と案外あっさり答えた。
「わかってくれるのか?」
彼は伏せた目をわずかに上げながら言った。
私は逆にたずねた。
「わかってくれると思ったのでしょう?」
ああ。と彼は低く頷いた。
安心したような顔だった。
私はその顔が何故だかえらく気に触った。
「市川大尉殿は、私のことをよく理解しておられる」
私は天井を大袈裟に仰いでみせた。
「大概の女は、こういう時、別れたくないと縋るのでしょうが、自分はどうも、そういう性分ではないようです」
雨足が強くなってきた。
叩き付けるような音が室内に響く。
「俺は、お前をそういう風に見たことはない」
さすがの彼も気分を害したのか、語気を強めて言った。
「別に卑屈になっているわけではありません」
私も負けじと、強い口調で返した。
「これが、今の自分を築き上げてきたと思っていますから」
「では、何と言えば気が済むのだ」
「別れを切り出す方はあれこれ話すものではありません。全て言い訳に聞こえます」
「……そうだな」
彼は再び目を伏せた。もう何も言わないといった顔をしている。
いやだな。小説の話ですよ。と私は笑いながら言ったつもりが、何故か涙が零れていた。
この時ようやく気付いた。
所詮、私もただの女なのだと。
そう思ったら、後はまったく駄目だった。
ついに机につっぱなして泣いた。
不器用な。
否、真面目な彼は抱きしめることは勿論、私に触れることすらしなかった。
その行為が私を苦しめると知っていたからだ。
雨の音がやけに五月蠅く耳に入ってきた。
桜花の匂う季節になった。
彼と出会ったのも、この季節だった。
目を閉じると、自然瞼の裏にそれが映る。
「では。仁科中尉」
「お達者で、市川大尉殿」
私は彼に普段と変わらぬ敬礼を向けた。
彼もまた普段通りの答礼の後、貴様も。と一言だけ発し、去っていった。
実に簡素な別れだった。
無論、そこに涙などもなかった。
しかし、彼の背中が見えなくなっても
そこから離れることが出来なかったのは、何と説明すればよいのか。
「仁科中尉殿」
どれくらい経ったか自分でも忘れかけていた時、野外訓練から戻ってきた少尉に声をかけられた。
つぶらな瞳を持った、またあどけなさの残る青年だった。
「市川大尉殿は随分と鈍足でいらっしゃるのですね」
何故だ。とたずねると、駅まで徒歩半刻の道のりを一刻半もかけて歩いていた。
あの大尉殿がですよ。と彼はおかしそうに答えた。
言葉に表せない何かが胸に込み上げた。
舞い落ちる桜は、それを理解しているようだった。