うたかたの夢
薄暗い畳敷きの部屋。
ごろりと身を投げ出し、横向きに寝そべったプロイセンは目蓋を閉じている。障子の戸が少しだけ開けられ、中を伺う気配に気づくも、目蓋は重く、圧し掛かった睡魔に目を開けることも出来ない。それでも、少しだけ苦心して、目蓋を持ち上げれば小さな子どもの素足が見えた。
(…こども?)
すっと子どもがしゃがみ込む。投げ出した腕の先。人差し指に親指が僅かに重なり、緩く輪を描いた指の間に子どもは自分の小さな指を差し入れる。
「ずいずいずっころばし
ごまみそずい
茶壺に追われて
とっぴんしゃん
抜けたら、どんどこしょ♪」
輪の間を抜き差しする小さな指。きゃらきゃらとした子どもの歌声。耳慣れない言葉にプロイセンの意識は僅かに浮上する。
「俵のねずみが
米食ってちゅう、
ちゅうちゅうちゅう
おっとさんがよんでも、
おっかさんがよんでも、
行きっこなしよ♪」
触れては離れてゆく指。薄く開いた瞳に移るのは白く小さな足と花柄の赤い着物。
「井戸のまわりで、
お茶碗欠いたのだぁれ♪」
輪の中に入ってきた指を反射的に掴むと、「きゃあ!」と声が上がった。それに目が覚める。掴んだ指の先を見やれば、切り揃えられた黒髪に赤いリボンを付けた女の子が驚いたような顔をして、プロイセンを見下ろしていた。
「……夢、じゃないのか?」
どこか微睡みの中にあり、夢の中のことだと思ったが掴んだ子どもの指は温かい。プロイセンは子どもを見あげた。
「お前、どこの子だ?」
「ここの子」
子どもは答えて、プロイセンの顔を覗き込む。プロイセンは眉を寄せた。日本は一人で暮らしているはずだが…それに何度となく、訪ねているが、この家に日本以外の誰かが居たことなどなかった。
「お兄ちゃんのお目々、きれいね」
小さな指先が伸びてきて、反射的に目を閉じる。頬を撫でられ、目を開けば、子どもはくすりと笑った。
「…きれい、か?」
「うん。お庭のね、万両の実みたい」
「…そうか」
プロイセンは言葉を返して、子どもを見上げる。開いた障子からは黄昏の夕日が部屋の中に差し込む。
「…お兄ちゃんは、菊が好き?」
唐突に子どもがそう口を開き、プロイセンは瞳を瞬いた。一瞬、「菊」と言う言葉が「日本」であることが解らず、眉を寄せる。それをじっと子どもは見下ろした。
「…菊って、日本の名前だったか?」
それにこくんと子どもは頷いた。
「…好きだぜ。あいつといると、ほっとする」
煩わしい何もかもから逃げ出して来れる、この世界で唯一の避難場所だ。甘えも我侭も、柔らかな笑みひとつで許されるのはひどく心地が良かった。
「あたしも菊が好き。…もう、頭、撫でてもらえなくなったけど…」
子どもは小さく呟く。黒い髪が小さく揺れた。
「何で?」
「…菊にはあたしがもう見えないから」
黒い瞳が水の膜を湛える。プロイセンは「あァ」と小さな息を吐く。この子どもは「妖」なのだろう。そして、自分がこの子どもを見ることが、触れることが出来るのは、自分が「国」でも「人」でもないあやふやで曖昧な存在だからだ。
「…俺が、代わりに撫でてやるよ」
日本と同じ艶やかな黒髪を撫でる。潤んだ瞳の縁を撫でれば、子どもは嬉しそうに笑った。それにつられてプロイセンも笑む。
「あ、帰ってきた!」
指の輪の中を小さな指が擦り抜ける。着物の裾が揺れる。ぱたぱたと珍しく騒々しい足音が近くになり、障子が開いた。
「師匠!」
息を切らした日本。それを子どもは見上げる。すぐ傍に子どもが居るというのに、日本の目には映っていない。気づく気配もない。日本に子どもは見えていないのだと解り、プロイセンが眉を寄せれば、子どもはプロイセンに何でもないように笑んだ。
『赤いお目々のお兄ちゃん、ばいばい。またね』
子どもは手を振って、日本の脇を通り過ぎて、庭へと駆けてゆく。その姿がふっと夕暮れに融けて消える。それにプロイセンは赤を瞬く。
「いつ、いらっしゃったんですか?玄関が開いているので、驚いたじゃないですか」
(…ああ、あの子が見えないのか。あんなにも鮮やかに俺の目に映り、着物の花の模様まで解るのに)
確かに手のひらに残る小さな指の感触を確かめるように、プロイセンは指先をぎゅっと握った。寝転んだまま答えないプロイセンに日本は僅かに眉を上げる。それをプロイセンは見上げた。
「…いつか、俺も…」
気づいてもらえなくなるのだろうか?…それはなんて寂しく悲しいことだろう。愛しい人に自分の姿が映ることが出来なくなっても、自分はきっとそばにいたいと望むのだろう。あの子どものように。
「師匠?」
覗き込む黒。プロイセンは日本の首に結ばれたネクタイを掴む。
「…もっと、俺を愛せよ。忘れるな…」
噛み付くように口づけ、引き寄せた日本の体はせつなくなるほどに温かかった。
おわり