仮縫い
悪夢だったはずだったのに、恍惚とした思いに彩られて脳裏から離れない一時期がある。あの頃の俺は足元が抜けていて、誰かに先を歩いて指し示して貰わなければ立っていられなかった。不動こそが全てだった。あの影山よりも直接的なこの支配者の下が心地好かった。被虐性愛的な快感が募るのを抑えきれなかった。首輪を渡されれば喜んで自らの首へ巻いたし、四つん這いで歩くことも、惨めな姿をさらすことも厭わなかった。世界の全てが不動であるならば、彼以外の人間にどう思われようが構わなかったのだ。俺は彼の望むままに動き、彼の望む言葉を口にした。それは酷く心地がよかった。自分を全て丸投げして不動に従っていればいい、という、実に単純明快な行動理念は俺から余計な思考を奪ってくれた。一種の、麻薬のようなものだったのかもしれない。
不動は、実によく俺のことを理解し、またそれを利用してよく弄んだ。人間が嫌いだという印象を疑うほどに、彼は人間というものを勝手に理解し位置づけしていた。残念ながら俺はその枠組みにピッタリとはまったというわけだ。エイリア石の影響で本能のままに動いていたのだから読みやすくはあったのだろうが。しかしそれを抜きにしても誰かに依存する人間というものを彼は充分に理解していた。繋がれた鎖を引かれて気まぐれなキスを交わす必要が、愛などという甘いものがなかった俺たちにあったのかは分からない。ただ不動は定期的にそれをしていた。そのことだけは、未だに俺には理解できない。
治りきったはずの傷がどうしようもなく疼いて、俺の底の被虐性愛が少しずつ浮き上がってくる。代表選考で再開したとき、俺は冷や汗が止まらなかった。折角過去を消化して進んでいるのに。念願の鬼道の隣に、立つことができているのに。不動へ傾倒する気持ちが邪魔で仕方なかった。そして思い知る。あいつはまだ、俺の支配者なのだと。
仮縫いの糸は解けても、
薄く確かに、
跡は残り続ける