薔薇とゆりかご
何の因果か、自分は数百年後に来ていて、未来の自分が言うところの「現代」にて、色々世話を、してもらっていた。どんな魔法や呪文をかけても、戻ることは出来なかったので、だらだらと、居座っている。時々、現代の自分の手伝いをしながら、彼の屋敷に、住みついていた。自分に出来ることといえば、毎日彼のところにくる、大量の書類の中から、急を要するものを選んで先に渡すこと、彼のかわりにサインをすること、薔薇の手入れをすること、くらいだった。紅茶は、現代の彼のほうが、うまく淹れられた。彼はひたすら、仕事に徹していたので、自分はそのぶん、庭の手入れをこなした。書類の整理は彼の使用人がしたし、自分は他にやることもないので、庭に出ては土をいじり、水をやり、花を咲かせる。現代の彼は、忙しいから、あまり庭をいじれないと、言っていた。花が咲くと、彼はたいそう喜んでくれた。特に、薔薇が咲いたら。薔薇が咲いたら、どんなに仕事で疲れていても、顔をほころばせて笑うのだった。
例えば、自分がここからいなくなって、果たして誰が困るのだろうかと、考える。この部屋から、消えて、いなくなることは、充分に考えられることだ。自分が突然、この時代にやってきたように、また突然、いなくなるかもしれない。それは自分にとって、ある恐怖だった。いつの日か、忘れられてしまうのだろうか。忘却ほど、おそろしいものはない。だから、出来るだけこの時代に、自分の爪痕を残してやろうと、思った。薔薇を見れば、自分を思い出してくれるようにと、部屋に飾った。
いつだったか彼は、夢を見るのだと、自分に話した。ただひとり、ドアの前にいて、じっと誰かを待っているという。その誰かが、自分であってほしいと、思った。ずっと、彼はいまも、過去にとらわれているので。この自分の、輝かしかったであろう過去に、縋りついてほしい。永遠に、縛り付けてやりたい。だけどそれが叶わないのは、もう知っていた。
サイドテーブルの薔薇が、ツンと香った。この薔薇をここに置く自分がいなくなったら、少しは彼も、悲しんでくれるかもしれない。あるいは自ら生けながら、自分のことを思い出してくれるかも、しれない。
背中で眠っている彼の体温を感じながら、うとうとと、夢の狭間をさまよう。彼にだけ、許した背中である。求めていた、誰かの体温がそこに、ある。眠ってしまおう。夢からさめても、この温もりがありますようにと、呪いにも似た祈りで、まぶたを閉じた。
20100521
『薔薇とゆりかご』