みちたりる翳
居眠りをする新羅の顔から眼鏡をそっとはずしてやるとき、その幼い寝顔に、彼女はいつだって微笑んだ。でもそうするための唇も、頬の筋肉も、ほそめる眦も、どれも今の自分には無かったのだとあとから思い出して、幾分複雑な気持になるのだ。この街のどこかにいるわたしの首よ、お前の顔はいまどんな表情を浮かべているのだ? 彼女は胸の内でそっと問いかける。首をなくすと同時に声をうしなってから、随分とたつが、問いかける言葉は自らの声を自然と彼女に思い起こさせた。でも、それだって、首のあった頃の記憶のない彼女にとっては、本当に自然といっていいものなのか、分かりやしないのだ。記憶は時を経るにつれて想像へと姿を変え終いには妄想と化す。私の所有している私に対する情報が、すべて、妄想でないだなんて、一体だれに証明できるだろう?
ソファに座ったまま寝息をたてる新羅の前に、セルティは立ち尽くしている。手には眼鏡をもって。ちょっと前までは、そのソファのあいている場所には、黒いランドセルがあったのだ、と彼女は思い出す。短いずぼんからのびた華奢な脚、少しだけ日に焼けたちいさな膝小僧。彼女の美しい指をひどく大切そうに握りしめる両手は子どもの体温をして妖精の心をいくらか慰めたものだった。あの時あたためられた心は、いまでは熱く静かに燃えている。男の、少しざらついた、長い指は、今では違ったやり方で彼女を慰めた。その時の移りの、何と甘美で残酷なことか。
彼女は、眠っている男の目の前で、その身に纏った黒い影を解いた。背後の、一面の窓ガラスから部屋へと侵入する夕陽が、女の白い裸体を焼く。密度の濃い夕焼けがつくりだす女のかたちをした影は、新羅の身体をすっかり覆ってしまっていたが、それだけで、みちたりるなど、なんて馬鹿馬鹿しい。私の指はおまえに触れることさえないというのに。