蝉を踏んだ日
夏だった。
何もしなければ穏やかな男も、蝉の鳴き喚くこの炎天下では理由もなくイライラするらしい。結局その矛先は僕のもう一人の友人に向かっていったのだが、夏だろうがなんだろうがこの結果に影響は及ぼしていないような気もする。
今日は腕をサックリやられたらしく、腕からは血がぼたぼたと滴っていた。学校で応急措置は済ませたものの、病院には行きたがらず、かと言ってこのまま放置するわけにもいかない。放課後、僕の家に連れて行くことにした。夏のせいか、もう夕刻なのにアスファルトの上にある空はまだ青い。
「それにしても、あれだね。臨也は本気で静雄を殺しにかかってるよね」
「ああ。次会ったら髪先からすり潰して殺す」
どう考えても明日の話だ。怒りをあらわにしている静雄の姿を見て、僕は胸中で合掌した。臨也、僕は君のミンチは見たくないよ。
二人がお互いの青春をお互いにつぎ込んでからしばらくが経った。第三者から見れば不毛なことこの上なく、しかし下手に顔を突っ込めば頭部が吹っ飛んでしまいそうなのでそれは叶わない。それでもどちらかが少年院に連れて行かれるような未来はできれば迎えたくなかった。
これでも結構長い付き合いだ。純粋に彼のことを思って、それとなく遠まわしにその事実を伝えることにした。
「何かに熱中するのはいいことだけど……静雄はさ、もう少し違う方へその熱意を向けようとかは思わないかい?」
「違う方って……どこだよ」
「うーん、たとえば、好きな子とか」
口に出して僕の頭に浮かんだのは、首のない愛しい愛しい彼女の姿だった。僕は思春期も青春も成熟期も全て彼女に捧げていいと思っている。というか、実際捧げてきた。今の僕から彼女を取ったら何にも残らない。
そうやってしばらく脳内で惚気ていると、静雄がふと僕を見た。
「そういうお前は」
「僕? 僕かい? 全く心配には及ばないよ。僕は一生を彼女に捧げるつもりさ」
「あー……あいつか」
僕が彼女の話をすると、静雄はいつも呆れたような顔をする。今日もそうなのかと顔を見ようとしたら、隣に静雄はいなかった。振り返ると、五歩ほど後ろで止まっている。僕も止まった。
「どうしたんだい?」
「……お前は」
いつもの顔とは違って、なんともいえない、神妙な顔だった。
「幸せなのか?」
蝉がじんじん鳴いている。
どう答えていいのか分からず、ただこれは冗談ではないと察して、僕はありのまま答えることにした。彼女のことを考えると、自然にこぼれる笑顔と一緒に。
「幸せだよ」
僕は一生彼女だけを愛するのだから。その言葉は過去も、今も、そしてこれからも、ずっと変わることはない。
そう長くは無い沈黙が、蝉の鳴き声を強調する。なんだか胸をざわめかすような、だけど清々しい鳴き声。何もかもが空っぽになったような、そんな気さえするのだ。
「そうか」
静雄が、嬉しそうに笑った。