九月のエラー
世界がかすれていく。それは比喩ではなく、僕の率直な感想である。この八月、日記などをつけていたとすれば、日記帳の紙面はきっと消しゴムで擦り切れてぼろぼろ。この八月、ビデオテープに録画していたとすれば、上書き録画と度重なる再生でノイズが走る。この八月……
かすれていない、ぼろぼろでない、ノイズが走らない、そんな完璧な記録媒体はこの九月の情報統合思念体のみであり、その記録を再生できるモノは長門有希のみである。
尤も、長門有希は記録全てを伝えようとはしない。長門有希は無意味だと解る行動を一切行わない。長門有希は、僕が「最後には世界がかすれて、機能しなくなるかもしれませんね」という冗談を真に受けたのか理解しているのか、「大丈夫」という呟きを僕に向けた。
この会話は覚えている。いつの八月のものだかは解らない。
かすれた世界の最後、彼は祭りでりんご飴を買った。妹さんにせがまれたお土産がりんご飴だったのだ。それはこの八月、結構よくある出来事だったらしい。僕も幾度か覚えている。お祭りに居る彼から何らかを連想するとなれば、それはりんご飴、という程に頻繁な事だ。
妹さんの分だけでなく、自分の分も買った日を僕は覚えている。それも勿論、いつの八月のものだかはもう覚えていない。買っていた気がするけれど、そんな事はなかった。
そういう、人が聞けば苛立ちを覚える面倒な感覚の記憶だ。
「金魚のエサ、買ってこいって言われてた」
彼はオセロのチップを片手の親指と人差し指で弄びながら横髪を風になびかせ、次の手を考えているのだと思ったら、金魚のエサの事を思い出していたらしい。「わりぃ、帰るわ」、軽く言って持っていたチップをゲーム盤に収める。
「あんたんち、金魚飼ってたっけ?」
「居るよ。妹のだ」
「へーえ」
初耳だ。手に入れたとしたらきっとこの夏の話だろう。夏の祭りの風物詩、をお題に連想ゲームをすれば、必ず金魚すくいは挙がってくる。そして、金魚から何かを連想しろと言われたならばそれも金魚すくいなのだ。
「何だ。オセロの続きなら明日か、ダメならハルヒに代わってもらえ」
「オセロはお開きで結構ですよ」
ただの連想で『その金魚はこの夏のもの』だと思ったに過ぎない筈だった。彼が涼宮ハルヒと会話する僅かな間に、僕は思い出してしまった。そして、彼を凝視した。彼に咎められた。それだけだ。
それだけというには重大すぎる。彼は金魚の存在を不思議に思っていないのか。
「あなたの家の金魚は、やはり金魚すくいのものですか?」
「じゃないのか? 夏休みの間に来たし」
「金魚すくいの金魚って、いつの間にか家に居るわよね。気がついたら水槽とポンプが買って来られてて、知らない間にちゃっかり玄関に馴染んでるのよ」
それだ、と彼も涼宮ハルヒも笑っているが……最後の八月に彼が持ち帰ったものはりんご飴だけで、金魚はぶら提げていなかった。しかし、彼が祭りの屋台で金魚すくいをしていたのを覚えている。
「どんな金魚さんなんですか? 何匹?」
「小金が二匹、出目金が一匹」
朝比奈みくるの問いに彼ではない人物が答えたものだから、長門有希以外の全員の視線がその人物に集中する。僕は推理を披露した探偵のように自信ありげな笑みを浮かべ、彼に答えあわせを促した。これは彼が金魚すくいをした時に何故か必ずそうなるように捕っていた組み合わせなのだが、当たっていてほしくはない。
「違いますか?」
「そうだな、出目金は一匹だし。当たりだ。どこで覗き見したんだ、お前は」
「そういえば、夏休みの宿題しに行った時は見なかったわね」
「ああ、水槽はリビングだからな」
どこまで知ってんだと言いたいらしい、気味の悪い思いをした表情を浮かべて、彼は僕を見る。
「おかしな詮索はしていませんよ、ただの予想です。金魚すくいで泳いでいる金魚の種類は限られていますからね」
「じゃあ、さっきのは勘なんですか? 古泉くんすごい」
朝比奈みくるの感嘆に、曖昧に微笑み返した。見つめすぎて波風立てぬよう、彼に視線を戻す。視界の端では涼宮ハルヒがなるほどという顔をしており、長門有希は変わらず本のページをめくっていた。
彼でなければそれはおそらく別の家人が掬ってきたものだろう。そう思えば金魚の存在はちっとも不思議なものではないが、彼の家にはこの夏、小金が二匹、出目金が一匹来るという確定事項があった事になる。
九月、如何様なルートかを問わず、必ず彼の家に金魚が存在するという小さな確定事項。
それは、どんなに小さい出来事であろうと未来が確定されている事の立証にはならないのか。僕のような人間が未来を知っている事で、世界は何らかのリスクを負うのではなかろうか。
「まぁ、お前の思考ルーチンなら金魚を当てるぐらいは分からんでもないな」
「随分と過大評価をされているようですが、それは喜ばしい事です。褒め言葉として受け取りましょう」
「褒めとらん、ナルシストめ」
「おや。持ち上げて落としますか」
口先では冗談を言えても、僕の内心は穏やかではない。一つだけ聞いても大丈夫だろうか。オセロのチップをまとめながら、一つだけ。
「バランスのいい組み合わせで捕れたものです。妹さんはなかなか筋がよいですね」
「……」
彼はふっと鞄の持ち手を掴み上げる手を止めて考え始めた。妹さんが捕った金魚ではないらしい。即答できないという事は、金魚を捕ってくる家人に心当たりもないらしい。
だったらその金魚は、あの夏に彼が掬った金魚だ。気づいただろうか、憶えているだろうか。
「持って帰ってきたのあいつだったかな? ……ま、いつの間にか居るもんだろ、ああいうの」
涼宮ハルヒの言葉を借りて答えた彼は、そこらに挨拶をして金魚のエサを買いに早退していった。彼も何かしらの違和感を覚えて早々に話を切り上げたのかもしれない。他ならない、彼のことだから有り得る。
リセットされた筈の八月から持ち越したその金魚は、次元を超えて命を持ち越した存在だ。多大に過ぎていった時間の中から僅かな記憶しか持ち帰れなかった僕たちが、唯一得た例外となる。
金魚すくいの記憶がある僕は、今この時間軸に居る『最後の八月を過ごした僕たち』とは別の僕なのかもしれない。金魚すくいをした彼がループする時間の中から選出されて九月に来た、という突飛な考えも出来る。
すごろくのように、先にあがったメンバーから九月を体験しているだとか……ここに居るメンバーが、同じ八月を経たメンバーでなかったら、という寒気のする想像。他の四人が同じ時間軸に収納されなかったのかもしれない。
タイムパラドックスの最も簡単な解決方法は分岐を作る事だ。
かすれて飛び飛びの世界。
僕は、あなたは、その金魚たちは、一体誰なのですか?
こんなに曖昧で信憑性に欠ける世界を、僕は、僕たちは、仕方なく生きていく。
- end -