古キョン2
今このそよ風の恩恵を受けている人物は、僕を含めて3人。その内一番窓に近い位置にいるのが長門有希だ。彼女は今日も相変わらず辞書のような厚さの本を読んでいる。タイトルと装丁から見たところSF小説だろう。彼女の存在はその小説内に書かれているフィクションよりも奇なるものだが、毎日毎日飽きることなくページをめくり続ける様子を鑑みるに、彼女は書物を読むという行為そのものが好きなのかもしれない。それなら僕が毎日目の前の彼と繰り返すボードゲームだって同じようなものだ。ボードゲームそのものより、彼と対戦するという一点にのみ僕の興味は存在する。
暑いな、と桂馬を進めながら彼が呟いた。恐らくそれはただの独白で、僕に対する語りかけではなかったのだろう。だから、そうですねぇ、と僕が応えたのは、擬似的にでも会話を成立させてやろうというささやかな悪戯心だ。彼は盤上からちらりと視線を上げ、すぐに局面に戻した。
「お前さ、そんなにきっちりネクタイ締めて暑くないのか?」
そして彼は、それがいくら擬似的で一方的で強引に始められた会話であっても、大抵は相手になってくれる。彼が周囲の人間に悪感情を抱かせない所以は、きっとその辺りにあるのだろう。僕には到底真似のできないことだ、と苦笑すると、彼は盛大に顔をしかめた。
「何がおかしい」
「いえ、何でもありません。ネクタイは上まで締めてますけど、第一ボタンは外してあるんですよ」
「……って、いつもは第一ボタン留めてるのか?」
「ええ。さすがに僕も暑いです」
「そりゃそうだろう。というか、ボタン全部留めてる奴なんているんだな」
初めて見たかもしれん、と呆れたように言い、彼はちょいちょいと将棋盤を指した。僕の番だ。少しの間、けれど結構真剣に考えてから飛車を使って彼の歩をひとつ取った。すると彼は、お前なぁ、と言ったきり溜息をついて黙り込んでしまった。
「……拙かったですか?」
「拙いも何も、それはないだろう。考えて指せよ」
「考えてますよ」
「マジでか」
ううん、と腕組みをして彼が首をかしげる。緩んだ襟元から伸びるしなやかな首筋が露わになって、気付かれない程度に注視した。何だろうな、お前頭いいのに、と言葉を零す唇も眺める。彼が自分のことについて話をしているだなんて夢のようだ、とぼんやり思う。
今ここには涼宮ハルヒも朝比奈みくるもいない。涼宮ハルヒはつい1時間ほど前に「コスプレ衣装を売ってるショップが駅前に新しくできたから見に行きましょう!」と宣言するや、状況を把握できていない朝比奈みくるの腕を掴んで引っ張って行ってしまった。2人とも鞄を持って行ったから、もうこちらに戻るつもりはないのだろう。これで長門有希さえいなければ彼と2人きりになれるのに、と不埒なことを考えた。
「周りが見えてないんだよ、お前は」
唐突なその言葉に、思考を読まれたかと心臓が跳ねた。しかし彼の視線は局面に注がれたままで、ああ将棋のことか、と内心安堵した。同時に苦笑を禁じえない。確かに今の僕は、完全に周囲が見えていなかった。注意力散漫も甚だしい。
几帳面に爪の切られた指先が銀将を摘み上げ、僕が今さっき動かしたばかりの飛車に取って代わらせた。読み切れていなかった一手に、僕は思わず感心してしまう。これだけ頭の回転が速いのだから、学校の勉強など何の苦にもならないはずだ。それなのに定期テストや実力テストの度に酷く落ち込んでいるのは一体どういう理屈だろうか。
「数学なんかよりずっと難しいですね」
「……それは嫌味か」
「まさか。だって数学は答えが決まってるじゃないですか」
現在の局面から僕が勝利する手を考えるより、関数や加法定理の問題を解くほうがよっぽど簡単だ。明確な解答がないものほど難解なものはない。そう、だから、僕の彼に対するこの途方もない欲望をどう対処すればいいのかなんて、いつまで経ってもわからない。叶うのであれば今すぐその手を掴んで、引き寄せて、抱きしめて、唇を奪って、思いの丈を全て明かしてしまいたい。不可能だと知りつつ願うからこそ、この妄想はひどく甘美だ。
「ゲーム好きのくせに、何でこんなに弱いんだ。いや、弱いけど好きだってことか?」
「あなたが強いんでしょう」
「俺は普通だ」
さっきまで僕の陣営にあった飛車を手の中で転がしながら、視線は盤上から外さない。瞼や睫の形を見つめていたら目眩を起こしそうで、とっさに目に付いた角行を押し出した。すると彼は片眉だけを器用に持ち上げ、僕と目を合わせてから、笑った。
「やっとまともな指し方したな」
やればできるじゃねーか。そう言って彼は何度も頷く。それを見て僕は、今のは今日の対戦始まって以来の考えなしな一手でした、と告白することができなくなってしまった。だってあんな目で、あんな表情で笑うなんて反則だ。期待してしまう。この不毛な想いが実ることなんて、あるはずがないのに。好意を持ってもらうどころか、彼と僕がただの同学年の友人として接することすら、許されるはずもないのに。
『機関』が呼ぶところの神、すなわち涼宮ハルヒの鍵である存在。そんな彼に対し劣情を抱いていることを機関の人間に知られでもしたら、まず間違いなく僕はこの場を追われてしまうだろう。機関にはそれだけの力がある。それ以前に、彼が僕の気持ちを受け入れてくれる可能性など0に等しい。彼に本気の拒絶をされてしまった日には、僕はきっと生きていられなくなるだろう。だから、この感情は僕だけのもので、僕だけの秘密だ。責任を持って墓場まで持って行くと決めたのだ。
「……み、古泉。おい、大丈夫か?」
「え……あ、はい?」
呼びかけられて、思考が一気に浮上する。目の前には覗き込むようにしてこちらを窺う彼の顔。その表情にわずかな心配が混じっているように見えたのは、きっと目の錯覚だ。動揺するな古泉一樹。とっさに慣れた笑顔を取り繕う。
「すみません、ぼんやりしていました」
「疲れてんのか?」
これは社交辞令だ。彼とて本気で僕なんかを心配しているわけではない。本気にするな。喜ぶな。落ち着け。冷静になれ。この平和を失いたくないのなら、ぬか喜びなんてするんじゃない。
「いえ、大丈夫です。僕の番ですか?」
「ああ」
極力彼の顔を見ないよう心がけながら、戦局にはあまり影響を及ぼさないような駒を選んで少し動かした。僕の内心はもう将棋どころではなくて、当然のように今日も負けてしまった。彼は困ったように呆れたように、俺はお前がゲーム好きだとはまだ信じられん、と言った。ゲームよりあなたが好きです、と言いそうになったのは絶対に秘密だ。