愛情の洪水
臨也が笑いながら言う。正臣は臨也を睨んだまま立っている。立ち去ろうとする様子も見せない。そもそも、今、正臣は臨也に呼ばれて、或いは強制されて臨也の前にいるわけではないのだった。紀田正臣は、自分の意思でここに来た。そして自分の意思でその男の言葉から逃げることも歯向かうこともせずに、いる。
「嫌い、って、口に出すのも結構嫌っちゃあ嫌なものだよねぇ。でも、嫌いじゃないと思ってる人間にも案外簡単に言えちゃうんだよ、嫌いって。好きって言うのはあんなに難しいのに。……なんて、恋愛小説の一節みたいで笑えるよね。君は沙樹ちゃんにそういう、気の利いた文句の一つでも言ったことがあるのかな?まあ、彼女は彼女で、君の言動を勝手に解釈してくれているから問題はないか。俺が魔法をかけてあげたからね。もう、効果は切れてしまっている頃合だろうけど。シンデレラは現実に帰らなきゃならない時間だ。君も、ね」
沙樹にかけられた言葉の魔法。正臣はそれを呪縛と呼んだ。昔の沙樹なら、それを魔法と呼んだだろう。けれど今は違う。沙樹も、そして正臣も、魔法使いの魔法の種を、それが人の心や体を犠牲にして作られることまで知ってしまっている。
「ああ、それとも君は、俺のことなんて本当は嫌いじゃない、とか?」
臨也が笑いながら言う。正臣にだって説明はできないのだ。沙樹を、そして自分自身を過去に縛り付け苦しめていた男を、せめて、殴ろうとしに来ただけなのに。何故それが出来ない。臨也はそれを良いことにどんどん好き勝手なことを喋る。臨也の言葉が凶器だと知っているのに、体よりも心の方が突かれると痛いというのに、正臣には止められずにいる。黙ってそれを享受するしか出来ずにいた。
「俺は、大嫌いですよ、あんたのこと」
振り絞るような声は思いのほか小さい。臨也は愉快そうに言う。
「君が大嫌いでも、俺は大好きだからね?」
正臣が臨也を睨む。どれだけ嫌悪されても、憎まれても、折原臨也の人間に対する愛情は歪んだまま、ただひたすらに加速していく。それは正臣を例外と見做すことなく、やがて飲み込むのだ。