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ターミナルへは帰れない

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潮騒のように遠く近く、掴みどころなく響くエンジン音を遠く聞きながら、一人の男が暁を背にして立っている。

 ああ、腹立たしい事この上ない!

 組織として確立してからまだ日が浅い。だが今や世界の組織と対峙できる程の実力を持った風紀財団の若き創立者。その確かな実力とカリスマ性で、どんな時も冷静に処置を行いながら、多くの山を越えて来た筈の雲雀恭弥。その彼が大変珍しく、荒々しく心を乱していた。

 まずはとっ捕まえないと始まらない! 早く来い、さっさと来い!

 そう、雲雀恭弥はただ待っていた。
 待つくらいならば自ら動き出してしまう雲雀恭弥が珍しく、愛車である単車の横にただ立ちつくして、遠くのエンジンに耳を澄ませていた。

 始まりは今から五時間ほど前まで遡る。
 風紀財団地下研究施設にある彼の私室。何時も通り滞りなく仕事を済ませ、飯も風呂も済ませた、寝るまでの穏やかな時間を、雲雀は一人過ごしていた。
 明るすぎず暗すぎず、適切な明るさで手元を照らす行燈の形を模した電気ランプで読書に更けるその時間は、雲雀が唯一心休まる時間とも言える。

 それなのに、あの子は! あの子という奴は!

 深い闇夜を切り裂いて、暁の空は東から朝に染め上がろうとしている。濃紺が暗い蒼へ。町と空との境界のほんの僅かな部分だけが、この時間にしか現れぬ色、橙に染まる。雲雀は空を眺めながら、キリリと奥歯を噛みしめた。

 一体何なの!

 ふと顔を上げて傍らの時計を見た雲雀は、いつの間にか随分と時間が過ぎ去っていた事に気づく。
 明日も早くから動き回らねばならぬ予定もあるし、読みかけの本の区切りもいい。そろそろ寝てしまおうかと本を閉じかけた時、ぺたんぺたんと間抜けな足音が雲雀の耳に届いた。

 ブオオオオオン!
 普通の人間ならば聞き取れぬ僅かなエンジン音を、鋭い聴覚が拾った気がして、雲雀は藍染の浴衣の袖に手を入れて、其処に収まる得物を軽く撫でた。
 目を向けた先のハイウェイを、明らかに法定速度を無視して走り抜ける赤の外車に、雲雀は眉を潜める。

 風紀を乱す輩は咬み殺すに値するが、今はそれどころではない。
 それよりも速急に、咬み殺さねばならぬ奴がいる!

 ぺたんぺたんと間抜けな音でこの風紀財団地下研究施設の中を、こんな時間に歩く者はいない筈だ。
 委員は皆帰った筈であり、革靴を履いた草壁はコツコツと控えめに歩く。唯一自由な出入りを許している、隣の組織にいる雲雀の愛する赤ん坊は、革靴だろうと下駄だろうと、足音どころか物音ひとつ立てやしない。
 それでは一体誰であるか。思い当たった間抜け面を、雲雀の唇がたどる前に、私室の障子が突然に開けられた。

 思い出しただけで胸の奥がかっと熱くなる。
 熱は身体を駈けめぐり、雲雀自身にすら収拾がつかない。

 そう、この熱を冷ます為にも、あの子を咬み殺さねばならない!

「ひっばりさーん! こんばんわあ」
 何時だって怯えた態度を示す綱吉が珍しく、すぱーんと障子を開けて雲雀の私室に入って来た。
 礼儀もなく私室に侵入。それ以前に不可侵条約を破った隣の組織の無礼者に、雲雀は不快感を露わに睨みつけた。
 嫌だなあ、怖い顔しないでくださいよと、雲雀の神経を逆なでするように言いながら近づいてきた綱吉からは、ぷうんと酒の匂いがする。こんなになる程呑むとは珍しいと、雲雀の意識が一瞬反れる。その隙に綱吉は雲雀の頬をがしりと抑え込み、トンファーを取り出す間すら与えずに、その唇にむちゅーっと吸いついてきたのだ。

 吸いつく? 男同士で唇をあわせる?
 一体どうして血迷った沢田綱吉。僕にそんな趣味はない、唇をあわせるなんて、考えるだけで肌が粟立つ。心臓の裏がぞくりとする。

 浴衣の裾が風にはためくのも構わずに、雲雀は近くの塀に思い切りトンファーを打ちこんだ。
 哀れ。雲雀の八つ当たりにより破片へと還ったブロック塀に、雲雀はふんと鼻を鳴らす。

 さあ早く来い! 今すぐに来い!

 何の反応もできぬ内に、気づけば柔らかい唇に触れられて、事もあろうかふにゃりと上唇を挟まれた。
 まさか天下の雲雀恭弥であろうとも、中学よりの後輩であり、巨大なマフィアのボスとなった男が、突然己の唇を奪うとは思うまい。
 気づけば綱吉の唇は離れ、大きく後ろに飛ぶように、尻もちをついていた。
 酒に溶けた琥珀の瞳は見開かれ、真っ直ぐに雲雀を見つめる。

 何なの、あの沢田の態度!
 勝手に唇を奪ったくせに真っ青になって!
 あの情けなさで天下のドン・ボンゴレを語るんだからおかしいったらない!

 青い顔した綱吉は、雲雀がトンファーを取り出すよりもさらに早く、ごめんなさい! と叫んで、彼の家庭教師に鍛え上げられた脚で去っていった。
 雲雀が何とか己を取り戻し、綱吉を追ってボンゴレの地下アジトに殴りこんだときには時すでに遅く。
 ツナならさっき車のキー持って飛び出していったぞと、赤ん坊がニヒルに微笑むだけであった。

 ああ、もう! 憎たらしいたらありゃしない!
 勝手に人の唇を奪って、青くなるって何様のつもり?
 思い出すだけで体中が熱を持つ。
 沢田をとっ捕まえて咬み殺さなけりゃどうしようもない!

 さあ早く来い! さっさと来い!


 黒衣の死神が何も言わず何も聞かずに唯微笑んで、細い指先で指示した地図上のガソスタ。一人佇みイライラを持て余す雲雀恭弥が漸く解放されるのは、すっかり朝日の昇った後に、聞き慣れたエンジン音を響かせ滑り込んで来た車から、運転手を引きずり降ろした後の事となる。