情
アップルは部屋を見渡して、ゆっくりと、まるで音をたてることを恐れるように息を吐いた。
旧赤月帝国に平和が戻ったというのに、この部屋は師が出ていったあと時間を止めていたに違いない。アップルが歩を進めるごとに埃が舞う。
伝記の材料を集めるために何度となくマッシュの家を訪れていたが、この部屋に入ったことはマッシュの生前から数えても両手の指に足りた。
本も筆記用具もない、ただ、一脚の木の椅子と釣り道具、それに西向きの窓があるだけの部屋。マッシュはこの、物置として作られた部屋が好きだった。だからこそ誰も無遠慮には踏み込めなかった。
アップルは迷わずに釣り用具入れを開き、釣り竿を手に取る。何度か握り直したがそれでも手には馴染まないようだった。釣りの経験の無い彼女だ、マッシュの釣り竿でなくとも反抗したくなるだろう。
目を閉じると、いつか川に釣り糸を垂れているマッシュのもとへ駆け寄ったことを思い出す。もちろんアップルが興味を持っていたのは釣りにではない。アップルの世界はマッシュを中心に回っていた。
アップルは自分が父親に最後に会ったときのことを今でも覚えている。
「ここで待っていなさい」
とセイカの村近くに連れて来られ、置き去りにされたのだ。戦後の、誰もが貧しかった頃のことだ。
子供心にも自分は捨てられるのだと判ったはずなのに、頭を撫でられた手の暖かさを信じて、父親を待つと決めた。母親のことは判らない。死んだのか、何処かへ行ってしまったのかも思い出せない。
それからただ父親を待ち続けた。二日経とうとする所へ、マッシュがこの釣り道具を持って通りすがったのだ。
マッシュは事情を聞いた後で、それならうちで待つといいと言った。私の家からならここもよく見えるから、迎えが来たらすぐ分かるよ。そう言って、小高い丘の上の家を指さした。
それでも心配なら好きなだけ確かめに来るといい、と提案してくれた。アップルはそれに従った。
繋いだマッシュの手の冷たい感触に、ひどく安心したのを覚えている。
当時のマッシュの家にはもう一人、戦災孤児の少年が住んでいて、彼はアップルの境遇に大層同情してよく面倒をみてくれた。アップルの気の済むまで傍についていてくれた。
父親は迎えに来なかった。
丘の上から今でも、待ち合わせ場所の木がよく見える。
(何て名前だったっけな)
どうにも思い出せない。
さては自分はこの少女の名前を記憶していなかったのじゃないか。ヤム・クーは首を傾げた。
少し前、この眼鏡をかけた少女が釣り竿を持ってヤム・クーとタイ・ホーのあばら家に不意に現れて
「釣りを教えてくれませんか」
と言ったのだ。
丁度手が空いていたし、夕飯の魚を釣りに出たいところだったので
「はあ、いいですよ」とか返事をしたように思う。タイ・ホーは家を空けていた。
少女のことは先の戦争で見知っていた。確か軍師マッシュの弟子だと聞いていた。
マッシュは彼女の名を大事そうに呼んでいたのだ。
思い出したいと思った。
「…こんなに釣れないものなんですか」
ヤム・クーは少女の言葉を独白の類だと思うことに決めた。そう簡単に釣れないからいいのだと説明するのは手間だし、滑稽だとも思った。納得させられる自信もない。
上空は風が強いのだろう、何度も陽光を雲が遮っては通り過ぎて行った。雨の匂いがするなとヤム・クーは思う。
「……のかしら」
「え?」うまく聞き取れなかった。「どうかしました?」
アップル(ヤム・クーがその名前を思い出すのは数日の後だ)はトラン湖の対岸を見据えて言った。
「先生は、どうして釣り道具を城に持って行かなかったのかしら」
そこでヤム・クーは何匹目かの魚をバケツに放った。夕飯用にはしかし、二匹あれば充分なのだけれども。
澄んだ空気はトラン城を丸っきり近くにあるもののように思わせる。本当はそう近くにはないというのに、まるで、何もかも手に届くよう錯覚するほどに。
変わらないトラン城の姿はかつての事すら身近に思わせた。
「さあ…」
どうでしょう、と繋げるつもりだったが、ヤム・クーは言葉尻を飲んだ。少女は膝の上に突っ伏してしまっていた。
ヤム・クーはその肩に手を置こうとするのを止めて、脇に置いてある釣り竿を上げ、少女の眼鏡を手に取った。
それから眼鏡の濡れた内側を袂で拭ってやった。
ぼやきながらも少女は小さな魚を釣り上げてはいた。
過去が現実に立ち返ることはあり得ない。三枚におろした魚が息を吹き返さないのと同じように。
夕立が湖面を揺らし始めた頃、二人はのろのろとあばら家へ逃れた。
夕立は茶を一杯飲んだところで止んだ。
マッシュの伝記を作る旅の途中なのだとかで、少女はすぐ出ていった。
「どうも有り難うございました」
少女がヤム・クーに一礼する。
その礼が何に対してのものか(釣り談義に対してか振る舞われた茶に対してか、それともそれ以外なのか)も判らないままでヤム・クーは曖昧に笑んだ。
しばらく少女の去っていく背中を見ていると、何かのイメージがその背に重なる。
すぐにその違和感(いや、既視感か)の正体に気付き、ヤム・クーは足下にすり寄ってきた猫を抱き上げて嘆息した。
少女のあの上着を着ていたのはマッシュだったはずだ。
気付くタイミングを計ったように、少女は振り返って手を振った。夕日の光を孕んでその腕は淡く光る。
あれだけ有能だった男が取り柄のない少女を傍に置いていたというのは、それだけで深い愛情の表れだったのではないか。
その将来に期待を持たず、何の見返りも求めない愛というのは人間に対してのものというより、畜生に対するような無償の愛ではないのか。だとすればそれに報いるものなど、この世にそう在るものではない。
腕の中の猫を地面に下ろし、ヤム・クーは家に戻った。
少女を哀れに思いながら。
タイ・ホーとヤム・クーが都市同盟へ発つのは、この数日後のことになる。