望みどおりに消えてくれ
彼女は笑った。
「こんにちは!」
明るい声と勢いよく振られた手に思わず苦笑する。気持ちだけは。表情は全く変わっていないのだろうけれど気持ちだけは笑ってしまうくらいには、その仕草はこの場所に相応しくなかった。そもそも、この人物が、かも知れないが。ふと過ぎった感覚に瞬き程度の手を止める。それを見逃さないのが彼女だった。チカリと瞬きをする、弥子のその仕草を見るたびに、笹塚は何かを見透かされた気分になる。
「笹塚さん、お腹空いてません?」
声も顔も変えないで、そっと気持ちを伸ばす。彼女にとっては当たり前の行動が、触れられた方には何かを残す。目の奥が、微かにくすぐったいような、何かだ。儚いくせに妙に残る、その不思議な手触りをあの彼もまた認めているのかもしれない。そこまで考えたときには、笹塚はもう体勢を整えていた。
「そりゃ、弥子ちゃんだろ」
「あ、ばれました?」
アハハ、と軽やかな声がスーツの間に抜けていく。ライターと共に無造作にポケットにいる、財布の位置を確かめる。
「何食いたいの?」
笹塚の言葉に、弥子がパッと顔を輝かせた。見事なまでの光に、また少し苦笑する。表情は変わっていない、その筈なのに弥子は少し照れくさそうにしてから、笑った。こちらは見事に表情が変わった。鮮やかに、残るように。
「あっちの通りをちょっと歩いたトコに、気になるうどん屋さんを発見したんですよ」
全くの知らない店らしいが、この女の子の食に対する嗅覚は折り紙どころか金メダル付きだ。よっぽどのことが無い限り、食べられるものが出てくるだろう。食にこだわりなど欠片も無いくせにそんなことを考えながら、笹塚は弥子の隣を歩く。うどんに思いを馳せているのだろう。少女の足取りは、軽い。風のように、さり気なく。
「あったかいもの、食べましょう」
そっと言われたことは、何でもないことだ。けれど何か残る。それこそ温かいような、何か。響きを、吟味してしまえば取り返しがつかなくなりそうだったので、笹塚は煙草を取り出した。
「失礼」
「どうぞ」
律儀ですね、と笑う、彼女の顔にも慣れてしまった。ビル風の中を女子高生と歩く、そんなことは想像すらしていなかったのに。
強い風に、弥子が肩を縮ませる。上着を持って出ればよかったと、思って、持って出なくてよかったと思った。
つめたい記憶を、抱えているだけで精一杯なのに。
ふと、温かなものが過ぎる。それは居心地がよくない、ものなのになぜか残っていく。例えば彼女の、笑い方そんなものが。
温かいものは、残る。ふとした拍子に、蘇っては繰り返しどこかを温める。
だから、と笹塚は消えさしの煙草にそっと思ってみる。
だから弥子ちゃん、俺は君を温めない。
君の中に、俺が何ひとつ残りませんように。
どうか綺麗に、忘れてくれ。
ささやかな自己満足を乗せて、笹塚は煙草を捻り潰した。
作品名:望みどおりに消えてくれ 作家名:フミ