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鍵穴のもろさを知らないだろう

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ぶん殴って血を吐かせて、そんでもって縛り上げる、そんなわけにはいかないだろうよ。長い足を組み直しながら、彼は投げやりにそう言った。奥底に潜んでいる、自分自身のことだと。
「弱い私を隠してしまいたい」。そう言えば、ギルベルトはお前がお前をどうできるんだと聞いてきた。別に人格がふたつもみつもあるなどと、そんな馬鹿げたことを言っているのではなく、ただ冷静に、己を見つめている自分がいることに、ひどく浅ましさを覚えただけだったのだけれど。

「私個人の浅はかなもの、全部捨てたいんです」
「…んで? そうやって自分の首しめて? なにおまえ、しにたいの。」

けらけらと笑うから気に障る。笑い声が鼓膜からなかに入ってきたとき、生まれていた不愉快さが膨張した。
死ぬだなんて。そう呟けばギルベルトはまたけらけらと笑った。眉間にシワを寄せながら笑えるとは、この人もなかなか器用なものだと一人ごちる。死ぬだなんて大袈裟だ、自分はただ、未熟な己を恨んでいるだけなのに。

ギルベルトがこちらを見る。眉間にシワを寄せたまま。そんなに恐い顔していたら、顔がそのまま固まってしまいますよと、そこで言ってやれたならいつもの自分だったのに。(もしかしたら、言ってやれない私がここにいては、いけないのかもしれない)。ため息をついて紅茶のカップに手を伸ばしたら、ゆらゆらと揺れている水面に情けない自分が映っていた。思わず殴ってしまいたくなった。
出来なかったのは、ギルベルトが私の手を掴んだからだ。

「…へえ、狂気がもれてるぜ。こんなんじゃあ殺せねえよ」
「…別に、殺したりなんて」
「ははは! またそれか、これだからお貴族サマは困る」

何かおかしいのですかと苛立ちを伴わせて爪を立ててみる。彼の手のひらに食い込んでいく指先が、指が、手が震えているのを見て、自分がギルベルトを睨むことさえなんとも馬鹿馬鹿しいことだなあと思った。
だから私は泣きたいのだ、殴ってしまいたいのだ。あふれる自信が体を動かすようなこの人と一緒にいたら、私までおかしくなってしまう気がしている。
よわい、弱いな。ギルベルトは目を閉じて、まるで子供に見せるそれのような顔をして私の手を撫でた。少しくすぐったかった。

「こんな弱い手で、何ができる」
「…自分を殺すことは、出来ます」
「っは、違いねえな!」
「じゃあ、」
「――だが違う。おまえがすべきなのは、この手で音を、旋律というものを奏でることくらいだ」

私の手の甲をつ、となぞりゆく指先はとてもきれいな形をしている。その爪のおくに黒くこびりついたものがあると気づいたとき、私のなかで、何かが疼いた。こわいほどに、ぞくんとなにかが揺らいだ。
この白い手で、彼は、どれだけ自分を殺してきたのだろう。自分はしているのに私にはさせないなんて、なんて狡くて、優しい人なのだろう。

「…あなたは苦しいんですね」
「坊ちゃんが優しくしてくれんなら、解放されっかも」
「このお馬鹿さん…」

明確な意図をもって肌をすべってゆく指先は、きっと私の心臓を撫でているに違いない。どくどくと波打つこの心音も、彼の意のままになっているのかもしれない。
この人は決して強くなどないのだろう。苦しさを自分でばかり抱えて、けれどそれを見せたりなんてしないから、私は思い違いをして、その強さにひどく焦がれていたのだ。どうなれば貴方のようになれますかと、そう問いかけた先刻の自分よ、なくなってしまえばいい。

「俺よりお前のがずっといいよ、だって俺はそそられる」
「…誘っているんですか」
「お前も忘れたいだろう?」
「あなたはお下品ですね、ほんとうに」

はあ、とため息ひとつ吐いて、それから思いきりギルベルトの首筋に噛みついてやった。
そうしてあなたが強いままでいられるのなら、私の憧れであり続けてくれるのなら、なにもかも脱ぎ捨てて、あなたがそのままでいいと言ってくれた、私はこの私でありたい。
苦しみなんて酔って忘れる。おまえはきれいなままでいてくれよと、彼が小さく呟いたのを、私はとりあえず忘れていようと思う。