すべて過去にかえる
「うつくしいんだよ。何もかも。過去になっちまえばな」
あっけらかんと言い放ったときの清々しいまでの笑顔が、脳裏にやきついて離れない。まだ暑さも弱々しい、初夏のことだった。俺がギルベルトについてきたのは、なにでもない、俺自身のためだった。うまく機能してくれない体だとか、ひとり戦渦を耐え抜く愛しい兄のために、と。だから言ってしまえばこれは、ただの取引だった。あくまでビジネス。俺が自分を取り戻して、彼は地位を高めるための。
「…本当は、あの人のこと、傷つけたくなかったんでしょう。」
「さあな。俺は負けず嫌いなだけだ」
「どこまで頑固なの、おまえは」
「ははっ、頑固か! お前もおもしろいことを言う」
たかが数世紀、ついこの間成り上がったような国のおまえが、なにをいうの。ひんやりとした風が、俺とギルベルトの合間をぬっていく。
夜空がきれいだから、一緒に見よう。そう言って彼を連れ出して、別にこんな話がしたかったわけではなかったけれど、きっと、そうしなければならない、なにかがあったのだ。胸がいっぱいになってなにも考えられなくなるような、そんな息苦しさを俺は感じている。
「ただ笑って、そうして時間が過ぎて、それでいいと思ってるの」
強く視線をおくった先の、ギルベルトは困ったように頬をかいた。あー、と言う。白く細い指が流れるように宙をおりていく。おろされた手は、傷だらけだった。
それを見て、やっぱり行き場のない怒りがしとどに込みあげてくる。だって何もかもが美しかったのだ。彼が言うように、過去のものはなにひとつ、きれいだった。
ギルベルトが言ったとおりにきれいなものたちが、まず、許せなかった。きれいなはずなんてないのに、ただの思い出に変わってしまったそれらを、俺は軽蔑することも切り捨てることもなく、慈しもうとしたのだ。
咎をわすれてしまった、ようだった。
「まあ、ローデリヒの坊ちゃんは」
「、」
「元気だろうなあ。きっと、また乗りこんでくる」
だから笑っていられるの。その根拠はどこにあるの?
聞いたって、真剣に問うてみたって、ギルベルトはただ曖昧に、聖母のようなやわらかさで笑むだけなのだ。どうしてローデリヒさんのことがわかるのと、そんな馬鹿げた妬みさえ生むような気がした。俺は、ローデリヒさんに、恨まれているとしか思えなかった。
「そこまで痛めつけたわけじゃあない。あいつもそれを分かってる。ただ、そうさ、お前がいた証というものが失われるのを――恐れているだけだ」
「…ヴェネチア…」
「そうだろう? イタリア=ヴェネチアーノ」
ギルベルトの瞳の蒼さが、俺をひきつけて放さない。途端に『イタリア』としての自分が目覚める気がした。そうだ、俺は、『イタリア』だった。
あいつも所詮は人間とかわりはしないんだよ。きらりと輝いた星を見つめて、ギルベルトは言う。オーストリアでローデリヒであるあいつも、プロイセンでギルベルトである俺もな。
「きっと勝つんだろうね、プロイセン。」
「お前の気がはれる程度には、確実だ」
だんだんと空気が冷えてきて、ふるりと体が震えた。そろそろ戻るか。明日も忙しい。そう言って立ち上がったギルベルトに、俺は、なにも言えなかった。
どうしてそんなにも過去が大事なのと、その胸倉をつかんで引き寄せて、無理にでも言わせてやりたかった。
けれどそうしなかったのは、多分、俺も過去がうつくしいと思ったからだ。ローデリヒさんが昔を大事にするように、ギルベルトがそれを慈しむように、俺もまた、大多数のうちのひとりにすぎなかった。
この瞳の蒼さが、大空のような視界をもって世界を見つめているんだろう。その蒼が失われる日は、やがてくるのだろうか。
「未来はお前のために、ないのかもしれないね」
吐き捨てるように言ったそれを、ギルベルトは微笑みながら聞いていた。「過去があればいいんだよ、」暗闇にとけこむように離れていくギルベルトのもつ過去も、プロイセンの歴史も、あくまで俺にとって一部でしかない。これまでも、これからも。
俺はこのとき、彼を利用していた。ただそれだけだった。