致死毒
脱衣所にはぱりっとした一揃えのスーツと、清潔な白いタオル。シャツに袖を通すと、まるで誂えた様にぴったりと体に沿う。上着は手に持って、湿気のこもった脱衣所を出る、テーブルの上には赤と緑の色鮮やかなピザ、バジルとオリーブオイル、トマト、視界に入ると空腹であったと思い出す。用意してくれたのであろう彼は階下に居るのか、行方知れず。しかるに遠慮する仲でもない、アーサーは座って、上着を置いて一切れ摘む、おそらく美味しい味。指に付いたピザソースを舐め取る、割れた爪が舌を刺す。
とん、とん、足音が聞こえて、彼が階下から上がってくる。トマトに、慣れた香りが混じる。手にはポット。匂いからして中身は紅茶。どうぞ、と差し出された彼の淹れる紅茶はいつだって美味しくて、自分の趣味を熟知されていると、否応なしに突き付けられる。彼は、自分の為に生きている。
「右腕の傷は、治ったのか」
潜伏先に馴染む様にとイタリア人の話術を身に着けた彼と違って、アーサーの話し口調は朴訥である。国同士ではなく人間と話す時は、特に顕著だ。自分とは明らかに違う存在への、接し方が分からない。彼は、何を思って自分に接している? アーサーの為に、奥歯に死の準備すら仕込んでいる彼。
「もう二年も前の傷ですよ」
ほら、とめくりあげて見せた腕には、数多の傷跡。アーサーの記憶にある傷がどれなのかも分からない程に、新旧様々に刻まれた彼の苦労。本国での厳しい訓練や、イタリアでの修羅場、イタリアンマフィアや政府への侵入。いつの間にか空であったカップにはまた並々と紅茶が注がれていた。彼は空気のように、流れるように行動する。それもまた訓練の成果なのであろう。もうシャツで覆われた右腕は見えない。
「紅茶、美味しくありませんか」
おそらく渋い顔をしていたのだろう、彼は困ったように笑う。いいや美味しいよ、いつだって。飲み干した白いカップの底、薄っすらと残る茶色。何でもおっしゃってくださいね、言って、後ろを向いた背の、白いシャツに薄く見えた大きな傷跡。
「すまないな、いつも苦労をかける」
ぽそりと呟いた言葉に、彼は穏やかな物腰を捨てて勢いよく振り向いた。
「そう、思うなら、」
先ほどまで貼り付けていた、イタリア人じみた軽薄な笑いはもう存在しなかった。外人を装っていても、いくら長く外国に住んでいても、異国の血が混じっていようと、結局彼はイギリス人であると示す、酷薄な、しかし泣き出しそうな、縋るような顔。革靴が鳴って、隣に彼が立つ。屈んだ彼の冷たく白い指が、頬骨を伝い、綺麗に整った親指で、アーサーの唇を撫ぜた。その袖から、ふわり香り立つエスプレッソ。どこまでもイタリア人を装った彼の、低く落とした声が、耳元で吐息混じり、落とされる愛の言葉、アイラブユーよりも情熱的な語彙。そしてそっと合わさった唇が、熱くて、温かくて、しかし感情は何も分からなくて。絡み合う舌が彼の望みならば、せめてもの償いに応えよう。舌が触れる、奥歯に仕込んだ致死毒に、いつか彼が殺されるまで。