くもをつかむはなし
あなたに触れたくて仕方がないのです。そう告げられた場所と、時間と、それから相手が悪すぎたのだ。
夕暮れの陽でセピアに染まった学校の片隅、三年間、ゆっくりと馴染んでいった部室で。
高校生でいられる最後の秋で。
――最初で最後の、クライマーの、後輩が。
背もたれのないベンチに腰掛けた猫背の巻島と、直立不動で正面に立つ小野田の視線はいつもと違う角度でぶつかる。目を丸くして口を薄く開いて。驚愕と、動転を顔に貼り付けたまま、けれど決して目を逸らそうとしない後輩の顔。下手をすれば中学生に間違えそうな童顔だとずっと思っていたけれど、こうして見上げれば半年あまりで随分精悍になったものだ。
古びて曇った窓から流れ込む夕日が眩しい、そういうことにして巻島は少し目を細めた。
呼吸が上手くできない気がするのも、レース後でもないのに心拍が上がっているように思うのも、この締め切った部室に枯葉色のひかりが溢れんばかり、なみなみと注がれているせいだ。そういうことにして。
「クハ……なんだ、その顔」
唇の形が、上手に弧を描いていないのはわかっている。
余裕のある風を装いながら、山を登るときのあの高揚に近い鼓動を覚えながら、少しの怯えを抱いてもいた。
作り笑いは昔から苦手で、無理に笑えばキモいと引かれるのが常だった。
蜘蛛と呼ばれるのも、コワいキモいと囁かれるのにももう慣れてしまった。
周囲にあわせて自分を変えてやるつもりなんて欠片も持ち合わせていなかったから、離れる奴は勝手に離れて行ったし鬱陶しそうな集団からは自ら距離を置いていた。ベタベタした感情はいらなかった。
それは気楽な、とても気楽な孤独だったけれど、引き換えに巻島はこんなとき、どうやって人と接すればいいのかわからない。
あなたに触れたい、そう断言した小野田にどう応え、何を許せばいいのか。
わからないのに、ただ自分の望みにだけ気づいてしまった。小野田坂道が、気づかせた。
巻島の言葉が余程意外だったのか、小野田は呆然と立ち尽くしたまま動かないままだ。
「おいおい、どうしたよ小野田。聞こえなかったかァ?」
落ち着けよ、巻島裕介。オレはこんなキャラじゃないだろう。その一言で自分を諌めることができたら楽だったのか。
何かとてつもない過ちを犯して、この真っ直ぐな黒い視線が二度と此方を向かないかもしれない、そんな可能性に比べたら。
思って、けれど言葉は唇を零れ落ちてしまった。勝手に動く右手を留める術を巻島は知らなかった。
小野田の顔を中心に据える視界の端で、巻島の右手が小野田の左腕に届く。
そしてどうするのかなんて考えてもいない。肘からゆっくり滑り落とす指は尺骨の終わる場所、何かを堪えるように固く握られた少年の拳の直前でひたりと止まった。薄い皮膚の下、強張った筋肉の存在を強く感じる。
未だしなやかさを残すその手首に、触れる指先がやけに熱い。夏はもう、とっくに過ぎたのではなかったか。
このちっぽけな手の持ち主が、幾度巻島を駆り立てただろう。
ウェルカムレースのあの日から、気弱なルーキークライマーの背を何度も叩いてきたけれど。
一心に前を見据える後輩の眼差しを受けてペダルを強く踏み込むとき、きっと同じだけの力を受け取っていた。
「ま、きしまさ、ん」
我ながら昆虫類の脚に似ていると感じる、骨ばった長い指。何度も豆を潰し、擦り切れて、柔らかさなんて欠片もない。
こんなものがキレイで、触れたいと思うなんてイカれてる。巻島は思って、けれどすぐに嗤った。
イカれていると言うのなら自分もそうだ。グラビア雑誌の巨乳は眺めるだけで満足するくせに、土埃と太陽の匂いがするこの後輩には理性の外で手が伸びるなんて、言い訳のしようもないぐらい。
ごくり、と、小野田が喉を鳴らす音が巻島の耳に届く。
同時に少年の眼からは気弱な戸惑いがすっと消えて、――ああ。
「……巻島さん」
この、表情。
巻島はこの表情を知っている。
何度も何度も目にしてきた。
レースを、常識を、諦めを、何もかも、引っくり返して走るとき。
脇目も振らず駆けつけるべき目標を、見定めたときの顔だった。
ゴールではなく、山頂ではなく、他の誰でもなく、それがただ、自分だけに向けられている。
ゾクリとしたものが背骨の辺りを這い上がっていくのを巻島は感じて、無理に作ったものでない笑みが唇に浮かんだ。
しまったな、と、心の中で呟いた。それは最初に感じたような後悔の念から来るものではなく。
……しまったな。しまった。
蜘蛛らしく網を張って待ち構えていたつもりが、こんなに容易く捕らわれた!
それとも或いは、とっくの昔に絡め取られてしまっていたのか。
夕暮れの陽でセピアに染まった学校の片隅。三年間、ゆっくりと馴染んでいった部室。高校生でいられる最後の秋。
動かさなかった指先から、小野田の手首がふと離れ――そして触れる。
拳を開き、少し震えて、けれど確かな意思を持った暖かな体温。
それを心地良いと感じる自分が可笑しくて巻島は、笑った。