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死の上に座りたくない

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割れてしまった爪にやすりがあてられる。
右手をとって丁寧にやすりをかけている彼の口からは、楽しげな言葉が歌うように踊るように流れ出る。
流麗ではない、けれど軽やかな響き。
その言葉は口か出るたびに泡となって夜の闇にとけた。部屋の中は照明を絞っていて薄暗い。
泥が入ってひび割れた爪が曲線を取り戻していく様をただ見ていた。
「・・・・・・どうか、なさいましたか?」
ふいに彼が問いかけて、それきり口を閉ざしてしまった。
風に吹かれて窓が鳴る音。小さくやすりをかける音。衣擦れの音。
決して無音ではなかったけれど、あたりは酷く静かになった。
空気が徐々に沈んで停滞していく。深く、淀んで。
何かを口を開こうと思ったけれど、言うべき言葉が分からなかった。
ただ、黙って右手を見る。先ほどまで土を掘っていたとは思えない整えられた爪。
あなたは
と彼がぽつりとこぼす。声につられて顔を上げると、先ほどまでのイタリアでの暮らしをウィットをまぜて喋る楽しげな声も、本国にいる家族や友人を心配する気配も、こちらを案じてくれる優しい眼差しもなくなっていた。
どこか遠くを見ている真面目な目。
「あなたは、こんなことしなくていいんです」
右手を丁寧に下ろされて、左手をとられた。
壊れ物のようにそっと。やすりをあてられる。
「こんな風に爪を割ることも。泥だらけになることも。銃を握ることも。敵地に来ることも。なにも。」
「そんな、」
とっさにその言葉だけ出たが、続きを言うことは出来なかった。
彼の目がじっと見ていたから。
心配されていることが分かった。けれど、胸はずきりと痛んだ。

(そんなことを言わないで)

「あなたの爪をこのようにしないために、僕達はいるんですよ」
そう彼はぽつりとこぼして、そして左手を離した。
「はい、終わりです。本場の人間には勝てませんけど、エスプレッソは美味く淹れられるようになったんですよ」
待っててくださいね、と彼はことさら明るく言って部屋を出て行った。
左手に残った熱がどうしようもなくて、息を吐いて目を閉じた。
夜明けは、まだ。
作品名:死の上に座りたくない 作家名:ouoxux