調べに寄せて
ピアノなんていう重いものを入れて部屋の床が抜けやしないかとヘスラーは心配していたが、大丈夫ちゃんと頑丈にできてるよ、というミハエルのお墨付きで、アドルフの部屋にピアノを入れることは簡単に了承された。
部屋の造りは確かにいたって頑丈なもので、ついでに防音もかなりしっかりしているらしい。
隣室のヘスラーにも、ピアノの調べは聞こえないというのだから。
おかげで、遅い時間にもあまり気にせず練習ができるのがありがたいとは思っている。
今日はまだ昼下がりの早い時間だからいいものの、練習やミーティングが重なれば明るいうちにピアノに触れないこともあるのだ。
さて、とピアノ用の椅子に腰を下ろす。
最近新しく購入した楽譜を、やっと弾き始めたばかり。
今日はできるところまでそれを攻略しよう、と構えたところで、
コンコン、
二回、ノックの音がした。
どうぞ開いてると返事を返すと、控えめに開いたドアからエーリッヒの姿が覗いた。
「エーリッヒ、どうした?」
「マシンのデータ、分析が終わったので」
「ああ、」
「ちょっと、明日までに見てほしいところがあるので、」
中に入ってもいいかと視線で聞かれたので、移動して扉を開けて招き入れる。
どことなく疲れた顔のエーリッヒは、どうも昨日あたりからこの書類にかかりきりだったようだ。
つい先日までの分のデータもきちんと組み込まれたそれは、ぱらぱらと見ただけでもかなり細かく分析されていることが分かる。
几帳面なエーリッヒらしい、信用できる内容なのはいつものこと。
残りの紙束も手渡されて、指示されたページをめくって確かめる。
「明日の練習の様子を見て調整するので、それまでに一度マシンを見ておいてほしんですが」
わかった、と顔をあげて答えたのだが、しかし、エーリッヒの視線は自分を通り越して別のところに向かっているようだった。
「?」
不思議に思って、視線を追って肩越しに振り返る。
そこに位置するのは、
「ピアノ、弾くところでしたか?」
蓋が開けられて、楽譜が広げられている様子を見れば、誰でもそう思うだろう。
「ああ、新しい楽譜を手に入れたところなんだ、」
だから練習しようかと思って、と続けると、エーリッヒが興味深そうな顔をした。
そういえば、エーリッヒの前ではあまり弾いたことがなかったかもしれない、と思い至る。
「何か、」
「うん?」
「聴かせてくれませんか?」
あまりクラシックは聞かないのだと言っていたエーリッヒには珍しいことだと思う。
単純に、チームメイトの趣味に対する興味だったかもしれない。
しかし、拒む理由もない。
「いいぞ、何がいい?」
「クラシックはよく知らないので。何か選んでください」
選曲を任されて、さて、とアドルフは首を捻る。
いかにも疲れたといった様子のエーリッヒ、顔色だけで憔悴が見て取れる相手に、激しい曲を聞かせるのも気の効かない話だ。
ゆったりとした、温かみのある、そうだ、いっそ眠りを誘うような穏やかな曲がいい。
ピアノの上に積まれた楽譜から、いくつかを取りだした。
目指すページを広げて、それから乗せた指先を静かに下ろす。
トーン、と柔らかい一音。
研き込まれたピアノに映るエーリッヒが、ソファに身を沈めて目を閉じるのが分かった。
紡ぐ音、響く旋律、誘う眠り。
ほどなくして、すうと静かな寝息。
ピアノ越しに、アドフルは小さく微笑んだ。
数曲目を弾き終える頃になって、ピアノの旋律に紛れて、コンコンとノックの音。
指先に集中がいってしまっていたので、一瞬反応が遅れて、そうしたらアドルフが動くまでもなく扉は勝手に開けられた。
「……部屋にもいないと思ったら」
開口一番に入ってきた人物はソファに向けて小さく咎めるような、それでいて優しいような声を出した。
部屋に「も」ということは、別の場所にもいなかったということで、つまり今現れたエーリッヒの幼馴染みは、どうやら行方知れずの片割れを探し回っていたらしい。
どうしてお前の部屋にいるんだ、と単純に疑問の視線を向けられて、アドルフは手を止めて肩を竦めた。
「疲れていたんだろうな、弾きだしたらすぐに眠ってしまって」
そうだ、それは気持ちよさそうに。
真面目で仕事が早いのはもちろんエーリッヒの長所だが、夢中になって無理をしすぎるのは短所というか、周りの心配の種になる。
そんなエーリッヒがたまに見せた姿だから、そっとしておいてやりたかったというのがアドルフの言い分だが、シュミットにもそれは伝わったらしい。
「そうか」
いったいどうするのだろうか。
基本的にエーリッヒには我儘放題にしている(ように見えるのだから仕方がない)シュミットのことだから、起こして連れていくのかと思っていたのだが、
「ふむ、」
何やらひとり頷いて、それから眠る幼馴染みの隣にどかりと腰を下ろした。
「………シュミット?」
「エーリッヒが起きるまで、俺も付き合うことにする。何か弾いてくれるか?」
起こしたくはないから静かなやつがいい、付け足して、シュミットが横のエーリッヒの髪を撫でた。
さらりと崩れる銀糸は指に絡まりもせずに、はら、と落ちる。
「さっきまで弾いていたのは?誰の曲だったかな」
聞かれて、アドルフはああと返事をした。
「ドビュッシーだ」
「……そうか」
エーリッヒよりはいくらかクラシックにも精通しているらしいシュミットは、それだけで曲名までわかったのかもしれない。
小さく口元が微笑んだ。
「今のエーリッヒには、ぴったりだな」
じゃあそれでいい、言われてアドルフはピアノに向き直る。
ピアノに映る人影は、今度は二人分。
シュミットの腕がそっとエーリッヒの髪に伸びて、ふわりと撫でている。
その拍子にか、エーリッヒの頭部がくらりと傾いて、シュミットの方に倒れかかった。
とす、と受け止めた肩が嬉しそうで、アドフルは見ないふりをして微笑んだ。
いつだって強引で我儘そうに見えたとしても、シュミットがこの眠る幼馴染みをとてつもなく大切にしていることは分かっている。
二人ともが、それを分かち合って幸せそうなことも。
先程の旋律をもう一度なぞって奏で始めると、シュミットが小さく口の中で呟いた。
「…おやすみ、いい夢を」
弾き終える頃になると、静かな寝息は二人分になっていた。
お互いに支えあうように頭を凭れさせあって眠る姿はとても自然に見える。
ずっと昔から幼馴染みであったのだという二人。
もしかしたら、夢の中でまで、一緒に過ごしているのかもしれないと、そんなことをアドルフは考えた。
さっきの曲は、エーリッヒのためだった。
けれど、もう一曲、
今度は、二人のために弾いてやろうと思った。
「いい夢を、な、二人とも」
『ドビュッシー 夢 〜 グリーグ 甘い思い出<無言歌より>』
2010.5.23