Shark
池袋の車と人が行き交う雑踏の中ではいまいち映えない。
どちらにしろ生き急ぐ人々にはそんなもの見えていないのかもしれないが。
―ずいぶん日が長くなったな。
この間までは学校帰りにちょっと買い物をしていると瞬く間に暗くなっていたのに。
そんなことを考えながら帝人は家路を急いでいた。今日は杏里も正臣も用事があるようで、
放課後が空いた帝人は一人で池袋の町をぶらぶらしていたのだ。
しかし特に目的もなく歩くことに飽いてしまい、久し振りに家で怠惰な時間でも過ごそうと帰路についたのである。
―夜ごはんも買ったし、今日は家事はなにもしないでごろごろして時間を過ごそう。
非日常を求める彼だが、時には何も考えずに寝転がってのんびり過ごしたいのだ。
あの覚醒と睡眠の狭間、夢と現の境ほど気持ち良いものはない。
そんなとりとめもないことを考えていると、いつのまにかアパートについていた。
鞄から鍵を取り出しドアを開けようとする―
「あれ?」
なぜだか鍵はあいていた。確かに自分はおっちょこちょいなところはあるが、戸締りにはかなり神経を尖らせている。こんなぼろアパートに盗みに入る泥棒などいないだろうが、都会に対する警戒心から、そういったことには気をつかっているのだ。
「おかえりー」
室内から軽やかな声が聞こえてきて謎が解けた。
「……臨也さん、また来てたんですか。」
「最近会えなくて帝人くんが寂しがってるかなーって思ってさ。嬉しい?」
「別に」
このうさんくさい情報屋はもう問い詰める気も失せるくらいには頻繁にここに来ている。
どうやって鍵をあけているのかなどという質問は無駄なのでしたことはない。
「せっかく恋人が訪ねてきたのに冷たいなー 歓迎のキスくらいしてよ。」
「恋人になった覚えもないですしたとえ恋人だとしてもそんなことでキスなんてしません。」
「へぇ。やっぱり純情だな。キスは特別な時だけってやつ?」
「別にそういうわけでは……ただそんなに頻繁にするのもどうかと思っただけです。」
「いいんだよ頻繁で。キスは親愛の情を表す行為なんだから。好きな人にはどんどんしてあげなきゃ。」
「…そうですか。」
これ以上キスの話をするのも嫌になってきたので適当なところで話を切る。というかなんでキスの話になったんだ。
「それで、今日は何の用なんですか?」
だいたいいつも用などなく来るし、今回もそうなのだろうが一応聞いておく。
「んーちょっと試してみたいことがあってさ。」
そう言いながらなぜかこちらに迫ってくる。そのにこやかな顔からは嫌な予感しかしなくて帝人は反射的に後退する。玄関の方は臨也がたっているので必然的に壁際に。
「何なんですか試したいことって」
どうせろくなことではないだろう。だがもう逃げ場はない。
ならばせめて何がくるのか覚悟だけはしておこうと思い聞いてみる。
「いいことだよ。」
明らかに答える気がない。ゴツンと背中に壁が当たり自分の不幸を嘆いて天井を仰ぐと―
ガブリ、
「 っ、」
首筋に強い痛みが走った。反射的に下を見て、何が起こっているのか理解するのに数秒を要した。
「 なに、やってるんですか」
臨也がくびにおもいっきりかみついている。まるでシマウマの息の根を止めようとするライオンのようだ。
この前見たテレビ番組を思い出してそんな感想を持つ。
そんなことを考えている場合ではないのだがあまりにも突拍子がなさ過ぎてどう反応すればいいのか分からない。
「この前テレビでさあ、サメの交尾を見たんだよね。」
臨也がいったん首から歯をはずし言ってくる。
「は?」
「だから、サメの交尾。オスのサメがさ、メスのひれにかみついて逃がさないようにして交尾するんだ。だから人気のあるメスはたーいへん。交尾シーズンになると傷だらけになっちゃうんだ。」
「…それで何で僕の首にかみつくんですか」
まさかサメに憧れたわけでもなかろう。もしそうだとしても1人で日本海でも泳いでくればいい。
ついでに本当にサメにでも喰われてしまえばいい。
「俺はさ、オスザメはメスザメに自分のことを覚えておいてほしいからかみつくんだと思うんだよ。
よくさ、言うじゃない。人間は痛いのと気持ちいいのどっちが記憶に残るだろうか?って。
サメは両方をメスに感じさせて、自分を記憶させようとしてるんだよ。とても理にかなってない?
人間も見習うべきだよ。 まぁ、サメが交尾を気持ちいいと感じているのかは分かんないけどね。」
まったく理にかなっていないしそもそもサメに記憶があるのかと問いたかったがやめた。
どうせこの下らない遊びを正当化するための適当な口実だろう。数分後には忘れているに違いない。
「だからさ、帝人くんにはずっとずっとずっとずっと俺を記憶していて欲しいから俺も実行してみようと思ったんだ。 噛みつきながら交尾。きっと痛くてきもちいいよ?」
そう言いながらまた噛みついてくる。ピリッとした痛みが走って首の皮が切れたのが分かった。
―せっかく怠惰な時間を過ごそうと思ったのに。今日の運勢は絶対最悪だ。ていうか首の傷ってどうやって隠したらい いんだろう?絆創膏何枚いるかな?
もはや抵抗する気力もなくなって思考の海に沈む。力が抜けた体の中で、首だけが鮮やかに痛みを受容する。
―いたい、
今度、水族館にサメを見に行こうか。ガラスの水槽の中に閉じ込められて、窮屈に泳ぐのを見れば少しは気が晴れるかもしれない。まあサメに悪気はないのだが。むしろ、臨也がサメに似ているなんて考えたらサメに申し訳ない。
―きもちよくなんか、ない
しろくのまれていく意識の中、絶対に今日のことはすぐに忘れてやろうとおもった。