雨が降る
豪雨でも霧雨でもなく、ザァザァと降る穏やかな雨だ。今日は風がないので空から水滴が一直線に落ちてくる。そのせいだろうか。視界は薄い紗をまとったようにぼんやりとしている。外界から入ってくる刺激が全て鈍くなるようなこんな日が、帝人は割と好きだった。
透明なビニール傘の上を断続的に流れ落ちていく滴を目で追いながら、アパートまでの道を歩く。
雨が人の気配を希薄にして、まるで世界に自分しかいないようだ。
しかし、そのまどろむような意識が、鉛色の視界の中に1つの異物を捉えた。
「…静雄さん」
黒いバーテン服に、金色の髪。このひとは雨の中でさえ異質なのだな、と思った。
「どうしたんですか?こんなところで。それに傘、ないんですか?」
水も滴るいい男、とはこういう時に言うのだろうか。目の前の男は全身に水をまとって静かにたたずんでいた。
「あー取り立て終わって家に帰ろうとしたら雨が降ってきてな。傘を買おうかどうか悩んでたら、ずぶ濡れになっちまった」
そんなに濡れてしまったら傘を買っても意味がないと思ったが、それは言わないでおく。彼を怒らせるなんて狂気の沙汰だ。まあそんなことでは怒らないだろうが。
「僕の家、すぐ近くにあるんですけどよかったら雨宿りしていきますか?傘もお貸ししますよ。」
そんなセリフが口を衝いたのはまるで彼が雨にぬれた野良猫のように思えたからだ。…実際にはライオンよりも凶暴なのだが。今日の彼からはいつもと違う雰囲気が感じられる。何か、あったのだろうか。
「いいのか?こんなずぶ濡れじゃ部屋汚しちまうぞ?」
「構いませんよ。いくら静雄さんでもそんな恰好でうろついていたら風邪をひきます。せめて体くらい拭いていってください。」
「…じゃああがらせてもらう。」
了承を得られたので2人でアパートに向かう。会話はなかった。彼との会話はいつも極端に少ない。
しかし、気まずく思ったことはない。むしろ、となりに確かな気配を感じる静寂の時間は心地よいものだった。
―正臣や臨也さんは一方的に喋りまくるからなあ。騒がしい会話には拒絶反応が出ているのかもしれない。
家に着くとすぐにタオルを手渡した。
「これで体と髪を拭いてください。お風呂も貸せたらよかったんですけど、共同なので。」
「いや、これで十分だ。」
「今、何か温かい飲み物入れますね。」
そういって緑茶を入れる。以前正臣が、客人には茶くらい出せよといって勝手に置いていったものだが、彼の気遣いも時には役に立つ。
「どうぞ。」
「あぁ。悪いな。」
そこで会話が途切れる。部屋の中には雨の音しかしない。
―ザァザァ、ザァザァ
「……」
「……」
「……」
「…この前、俺を愛してるってやつに会ったんだ。」
「え?」
唐突に始まった会話に驚いて静雄の方に顔を向ける。彼は全くの無表情だった。
「俺は、好きな奴ができてもそいつを守ってやることはできない。俺にできるのは暴力だけだ。守ってやろうとしても、傷つける。…だから俺は、誰かに愛してもらうなんて無理だ。そう割り切ってた。割り切ってたつもりだったんだ。けど、違った。俺は、嬉しかったんだ。誰かに愛してもらえて、今までの人生の中で一番嬉しかった。」
しかし、彼は、全く嬉しそうではない。
「けどな、1回愛される快楽を知るともう我慢できなくなる。どんどん欲求が膨れ上がっていくんだ。違う、俺はこんな名前も知らない奴に愛されたいんじゃないって― 俺は俺が愛する奴に、 いや、俺には愛する奴なんていない。いない、はずだ。つくらないようにしてきた。でも、なら、俺は何を求めてるんだ?分からない。だから、誰かに聞いてみようと思った。幽か、トムさんか、セルティか。だけど、その時にお前の顔が浮かんだんだ。何でか分からないが唐突に。お前に聞いてみたいと思ったんだ。」
そう語る彼の顔は、全くの無表情だったけれども、それでもなぜか歪んでいるように見えた。
「俺は、何が、欲しいんだと思う?」
池袋最強と言われる男。そんな彼でもこんな風に自分の感情に戸惑い、相談してみたくなることがあるのか。
「お前には分かるか?」
彼は、善にも悪にも属せない。人間にも化け物にも。彼は平和島静雄というたった一人のグループにしか属せない。だから、こんなにも、孤独なのだろう。おそらく彼に本当の愛をあげられる人はいないだろう。彼も本当にだれかを愛することはできないだろう。彼は異質であり、誰も理解することなどできないから。だけど、僕は、そんな彼が―
「…静雄さんの言っていることは、よく分かりません。」
「そう、だよな。俺自身だって良く分かってねえし。変なこと聞いて悪かったな。忘れてくれ。」
「だけど、よく、分からないけど、僕が静雄さんを愛します。それで、どうですか?」
彼を本当に愛することなどできないと分かっている。僕はどんなことをしたって彼を理解できないだろうし。彼も僕のことを理解することなどできないだろうから。それでも、僕は彼を愛している。ひどい矛盾だ。でも、愛している。
僕がそんなことを考えたのも、僕の言葉を聞いた彼の瞳が一瞬揺れたように見えたのも、きっと、この全てを曖昧にするような、雨のせいだ。彼の腕がこちらに伸ばされるのを見ながら、そんなことを思った。