抱っこする話
「はい?」
この人はわりと僕の名前を口にしている、と思う。一回で十分だろうになんでかよく呼ばれている気がするのだ。夏の、遠く高く真っ青な空みたいな果てのない声。臨也さんの声が僕の名前を音にして耳にするりと吹き込まれる瞬間がとても好きだ。
「ちょっとこっち乗ってくれる?」
と言って自分の右足を叩く臨也さん。僕は今現在、ソファに腰掛けたこの人の足の間に座らされて後ろから軽く抱き込まれているという、客観的に説明するとなんか……いや、どう考えても恥ずかしい体勢でいる。あと困ったことに僕自身はこうされるの嫌いじゃない。
「え、っと………これで、いいですか」
言われた通り、臨也さんの足の間からちょっと腰を浮かせて右の腿へ、なるべく体重をかけないようにして腰を下ろした。
「ん、ありがと。よっと」
「へ。ふわ、う、えええっ!?」
「ははっ。帝人君ヘンな声ー」
変な声だって出るさ出るよ出なきゃおかしい。だっていざやさんがええっと、左腕を僕の膝の裏に回して右腕は僕の背中から腰にかけてを支えていてその状態で立ち上がってつまりこれはその俗に言う、
「お姫さま抱っこだねえ」
「うおわっ!?」
「口に出してるよ帝人君。いや、一人暮らしすると独り言増えるよねー仕方ない仕方ない」
「な、なにがしたいんですか」
「掴まってないと落ちるよ? 帝人君軽いけどバランス崩したら危ないし」
腕の中でちょっともがいて軽く抵抗の意思を表してみたらこの発言。落とされるのは、嫌だなあ。この人の場合、おっと手が滑った、とか言ってわざと落とすとか普通にやりそうだし。言うこと聞いておこう。
「あの、ほんと、なにがしたいんですか」
「ああうん。帝人君ぱっと見でも軽そうだから持てるかなって」
「………………………」
「なにその目」
「いえ別に」
「信じてないね帝人君」
「いえ別に」
「太郎さんヒドイッ!」
「リアルで甘楽さん口調はさすがに臨也さんでもちょっと……」
結局なにがしたいのか全く不明なまま、臨也さんは僕を持ち上げて無駄に広い部屋の中をくるくると歩き回る。機嫌は、よさそうだ。
僕はというと忠告された通りちゃんと臨也さんの首に腕を回してなるべく体を密着させて下手に動かないようじっとしている。顔を寄せた首筋からふわっと漂うにおい。臨也さんのにおい。これも好きだから鼻先を擦り付けるとくすぐったいと笑われた。
「ねえ帝人君」
「はい」
「夕飯は肉食べに行こうよ肉」
「? いいですけど」
「焼肉でもしゃぶしゃぶでも好きな店選ぶといいよ」
「ありがとう、ございます?」
「うん」
大きな窓から夕陽が差し込んで部屋の中は一面橙色に染まってる。僕を持ち上げている臨也さんも、あと多分僕も同じような色。なにが楽しいのかなにを考えているのか解らないけど僕を抱えて満足そうな臨也さん。なにをしているんだろうなあほんと。
「帝人君も早く俺くらい抱き上げられるようになりなよ?」
「僕、年上の男性をお姫さま抱っこして満足するような趣味はないので」
「いやいや。なんかのっぴきならない事態に陥ったとき瀕死の重傷を負った俺を抱えて逃げるくらいの甲斐性は見せてくれないと」
「……瀕死の重傷を負う予定があるんですか」
「あーんーあれとかそれとかバレたら、まあ多分」
その表情が珍しいことにそこそこ真剣だったので、今日の夕飯は遠慮せず肉を沢山食べようと決めた。臨也さんに抱っこされた状態での、ちょっと情けない格好の決意だけど。