金色の盃
風呂上がりでさっぱりした“かれ”がのんびりと廊下を歩いていると、
これまたさっぱりした着物姿の信長が上機嫌で紫の紐で封された
桐箱を抱えて歩いてきた。
「吉、酒につき合え」
「へいへい」
織田軍の妖術師と異名をとる“かれ”はうわばみでもあることで有名だった。
樽ごと抱えて飲み干しただの、いいや風呂桶一杯だったのだといい加減な
噂が織田軍にはいくらでもある。
「その箱、何入ってんの?」
「ちょっとした余興だ。職人に作らせていたが、今朝やっと出来上がったのでな」
「誰かに持たせて運べばいいのに」
「では吉、貴様が持て」
箱は意外と重い。すれ違う侍女や小性たちが、こちらを恐怖のまなざしで
見ていた。どうやら城の中のほとんどが、この箱の中身を知っているらしい。
一方の“かれ”は、この前からほとんど書庫に籠りっぱなしだったので、
世間はおろか、城の中のことすらほとんどわからないというのが現状である。
まあ、開けてみりゃ済む話だと“かれ”は思った。
久しぶりに入った信長の居間にはもう酒の用意がされていた。
信長の好物の、ギヤマン杯に入れて飲む赤色の酒である。聞いたところに
よると、これは葡萄という果物から出来るのだという。南蛮人から
手に入れて以来、彼はこれがお気に入りだった。ちなみに“かれ”は、
味は好きだが、がぶがぶ飲めないのが不満だ。
「吉ゥ、開けてみよ」
紫の紐をするすると解いた。中から現れたのは、金粉で輝くしゃれこうべ
を盃に加工した、なんとも悪趣味な代物だった。
信長の方を見ると、彼は意地悪そうに笑っている。
「見事であろう。このしゃれこうべの持ち主は、吉、貴様がこの前
滅ぼした寺の坊主だ。本願寺顕如ほどではないが、金が好きな奴
だったのでな、金粉で塗ってやったのだ」
「ありゃ寺ってより城で、あいつは坊主ってより、城主だろう」
「しかし貴様が坊主を殺したことに変わりはないぞ、吉法師。
地獄に堕ちるのが怖いか?」
そう言って信長は盃に葡萄酒を注ぎ、一気に飲み干した。“かれ”は
おとなしく、ギヤマン杯で啜る。
「何を言うやら。私は死んでも地獄にも極楽にも行けない身だ。名前も無く
身分も無く、あるものと言えばこの魂と身体だけ、その身体だって借り物だぞ。
坊主を何人殺したとしても、私には冥界の門は閉ざされてる」
吉法師、というのは“かれ”の本名ではない。信長が“かれ”に会った時に
“かれ”にやった名前だ。第一、それは信長の幼名である。それまで“かれ”
には名前は無かった。
“かれ”は盃を手に取り、ぐるぐると手の中で回してみたり、空っぽの眼窩の
中を覗き込んだりしてしばしそれをもてあそんでいたが、やがて信長の手の中に
戻した。
「地獄の門が開かぬ故に、地獄を見ることを欲する、か」
そう言って信長は立ち上がり、部屋の真ん中にそれを置いた。
戻ってきて座り、笑いながら“かれ”に言った。
「吉、貴様にこれをくれてやる」
「誰がいるか。悪趣味だ」
そうかとだけ信長は言い、側に置いてあった銃を取り上げ、盃に向けて一発撃った。
凄まじい音がしてしゃれこうべがばらばらに砕け散る。
「_____________あっ」
「吉、つまみを持て」
畳に散らばった欠片をそろそろと避けながら歩いていると、魔王は嗤った。
「その欠片は怖いのか、吉法師」