途方もなく
なんていじらしい男だろう。
それがおれが最初に佐藤くんに抱いた感情で、元々人間を観察することってすごく好きだったのだけど、佐藤くんに出会ってから、特に彼に対して、おれの趣味は顕著になった。厨房というファミレスの要といえる空間で、おれはしばしば彼といたので、多分この職場で、おれは彼と一番言葉を交わしている気がする。なので当然おれは、彼について一番よく知っているはずなのに、それなのに、佐藤くんはよくわからない。
彼がチーフを好きなことは、まあすぐに見ていてわかったけれど、その感情を押し殺したまま、彼はチーフの惚気をきちんと聞くし(それを聞き流しているわけじゃないことは、見ていてわかる、だって彼はチーフと向き合っているときひどく真摯なのだ)、叶う見込みなんて0に等しいその恋を、捨てることもおっぴろげにすることもなく、ただひとりで抱え込んでいるのだ。なんて、いじらしいのだろう。
そこでおれは立ち止まるのだ。どうして彼はそこまでチーフが好きなんだろうか、そうしておれはどうして、それがたまらなくいやなんだろうか。
「佐藤くん」
佐藤くんは、シンクを磨いている手をとめずに、なんだと返事をした。彼はとてもこの厨房をたいせつにしていて、閉店後のこういった片付けはとても真剣にやる。ちょっとこっちを見てくれたって、いいのにねえ。お前も手伝えと、口ではいうけど、それがあんまり本気じゃないのは、口調でわかるので、いつも俺は佐藤くんのまわりをちょろちょろしながら、いらないこと言ったり、ときにはお皿を拭いたりしている。
いまはもうすることもなくって、ただ佐藤くんがシンクを磨き終わるのを待つだけだ。
おれは佐藤くんの背後にたって、背中から抱きついた。おれは男にしたら、けっこう細いからだをしているので、こうした男らしい背中をしている佐藤くんのからだに、すこし憧れる。
「・・・なんだよ」
「ん~」
背中に顔をうずめると、佐藤くんの制服からは、調味料や油や煙草や、そういった匂いがしたけれど、それよりも、佐藤くんの匂いのほうが強くておどろく。一日の中で圧倒的にデザートより、メインディッシュを多くつくっているのに、どうしてほんのり生クリームのような、バニラエッセンスのような、甘いにおいがするんだろうなあ。
「・・・なんかあったか」
「んーん、べつに、そういうんじゃないんだけど」
ただ佐藤くんにこっち向いてほしいとか、そういった、こどもみたいな感情がむくむくわいただけであって。そうしてなにかあったとするならば、それは君がいつまでも遠くを見ていることだろうかなあ。佐藤くんはようやくシンクを磨く手をとめた。
「相馬」
「なあに」
佐藤くんはきっと困っている。どうしたらいいのかわからなくって、どうして俺がこんなになっているのかわからなくて。腕のあたりから、佐藤くんの心臓がうごくのがわかる。息をするたびに、ゆっくり動く背中があったかい。こんなに近くにいても、報われないことのが多いのは、やっぱりしんどいなあ。佐藤くんも、そうでしょう?
それでもなにかを望んでしまうのは、おたがい馬鹿だからかなあ。
「腹減ってねえか」
「ん、すこし」
「なんかつくってやるから、離せ」
おれはゆっくり佐藤くんから手をはなす。自由になった彼はすこしこまったような顔をこちらに向けたあと、さっき磨きあげたシンクを、自分の手を洗うために水でぬらした。そうして、同じくさっき洗ったきれいなフライパンをとりだす。その彼の途方もないやさしさが、この数十分だけでもおれに向いている事実に気付いて、またおれは彼に抱きつきたくなったけれど、そこはぐっとおさえて、お金のためでも自分のためでもない料理をつくる彼の背中をただみていた。ただ、みることしかできなかった。
まったくおれも、いじらしい男だなあ。