惑乱
どこからともなく現れた彼に別段新羅が驚きを示さなかったのは、パルクールと呼ばれる技術体系についてその大部分を把握していたからだ。
「それで、今回はセルティにどんな仕事を頼んだんだい?」
「安心しなよ、手間は掛かるけど危険はない仕事だから」
呆れたように肩を竦めた臨也に、新羅は右の中指で眼鏡のフレームを押し上げてから、小さく息を吐き出した。
臨也の目は、人間のほんの僅かな機微も見逃さない。
明らかに安堵した様子を見せる新羅に、臨也は軽く鼻を鳴らした。
「そんなにあの首無しが心配?」
テーブルの上の白い皿に盛られたフルーツを物色しながら、臨也はこちらに目も向けずにそう尋ねてくる。
「君が人間という種を愛するように、私はセルティを愛してるからね」
「ふーん」
吐息の様に吐き出された言葉が、新羅の言葉に対するものか、果物に対する反応なのかは分からない。
「コーヒーしかないけど」
「いただくよ」
コーヒーカップを両手に持ちリビングに姿を見せれば、臨也はテーブルに寄りかかったまま窓の外を眺めていた。
空気をその身一杯に孕んだ白いカーテンが、膨らんでは萎む光景の向こうに何を見ているのだろうか。
穏やかな陽だまりと共に部屋に入ってきた風が、彼の前髪を撫でるように揺らす。
無言のままカップをテーブルに載せれば、カタリと陶器とガラスが触れ合う無機質な音が鳴った。
視線すらも向けられず、意識の外の仕草で弄ばれる、彼によって選り分けられた果実。
男にしては細く華奢な造りの指先が掴んでいたのは、真紅に熟れた林檎だった。
手の平に収まるほどの小さなサイズのそれを白い手が口元に運び、シャク、という小気味良い音と共に齧る。
ゆっくりと味わうように咀嚼(そしゃく)する、細い顎。
溢れた果汁に濡れた唇を、なぞるように拭う紅い舌先。
その一連の上品な仕草の中に潜む淫靡さを、彼はどれほど自覚しているのだろうか。
そうしてこちらへと身体を向けた臨也は、見上げるような形でこちらを窺ってくる。
林檎と同じ、いやそれよりも鮮烈な色をした瞳は、何の感情も浮かび上がらせては来ない。
視線を合わせたまま再び林檎を口元に運んだ彼は、その白い果肉をゆっくりと噛み砕くと、静かに唇を重ねてきた。
磨り潰された柔らかな感触のするそれを粘膜越しに受け取れば、鼻腔にパッと花開くように広がる、酸味混じりの甘い芳香。
「こういうことは、首無しとは出来ないよね」
身体を支えるためにガラスに付いた手に、彼の手が重なり距離を詰められる。
悪戯っぽい笑みと共に外された眼鏡のせいで、視界は一気に鮮明さを欠いた。
「俺はこんなに愛してるのに、」
柔らかな黒髪が白衣に擦りつけられる。
微かに震えた語尾には、気付かないふりをした。
温度の低い手の平が身じろぎ、同じ向きに重なった指が絡まる。
視界は尚も不鮮明なまま。
彼の吐息が心臓の辺りを温めて、嗚呼、このままでは勘違いをしてしまいそうだ。
胸の辺りを温める感情の名前など知らない、知りたくない。
「俺は――」
呟かれた言葉は林檎と共に床に落ち、齧られた感情は二度と元には戻らない。
ただ醜く茶色に変色していくのを待つばかり。
(2010/5/25)
作品名:惑乱 作家名:蒼氷(そうひ)@ついった