美しき毒
すっかりと夜の帳が下りた刻限だというのに、その室には明かりが一つしか灯されていなかった。民家が楽々と収まってしまいそうな広さに明かりが一つというのは、どうも心許無い。
けれど、この室の主である青年は、そんなことなど気にも留めていなかった。青年が見ていたのは、目の前にいる存在だけだったからだ。
「……めて、下さい。もうこれ以上は……っ」
いつも、明るく穏やかに微笑んでいる彼のこんな表情を見るのは、これで一体何度目のことになるのだろうと、ふと青年は思った。
泣き出す寸前、と言うよりは、苦痛に顔を歪めていると考えた方がしっくりくるような、それ。そんな顔を見せるようになったのは、本当にここ数年のことだ。
全ては、そう、他ならぬ自分の所為で。
「君は、俺の命令が聞けないの?」
意地悪くそう訊けば、一瞬顔を強ばらせた後に彼は激しく頭を振る。そう、彼は自分には逆らわないし、逆らえない。……絶対に、だ。それでもこうして微かな抵抗を示すのは、それがこの上ない苦痛を伴うと分かっているから。
「……っどうして、貴方が死ななければならないんですかっ」
震えた叫びに、知らず青年は笑みを浮かべた。本当に、本当に、彼は何処まで行っても『彼』なのだ。
もう、取り返しなんて付かないと、分かっていても。
「でもさ、こうでもしなきゃ本当に手遅れになるんじゃないのかな。―――君が。あと、この国も……ね」
「……今からでも、まだ充分やり直せますっ」
「無理だって。元々俺は政治なんて興味無かったんだし。それに……」
昇山をしたのは、単なる成り行きだった。
先王が崩御して、野心を持つ人間が多く出て来て、欲望に支配された人間達が一ヶ所に集まるとどんなことになるのだろう。そんな理由から、あの山に踏み入った。
新しい王になろうだなんて、微塵も思わなかった。けれど其処で、彼に出会った。
「俺は何度も、君のことを好きになるよ」
普段よりも一層柔らかいと自分でも分かる、嫌みなど欠片も無い声音に、彼は益々あどけなさの残る顔を歪めた。
何処までも、何処までも、優しい彼。
初めて出逢った時、まるで砂糖菓子のようなだと思った。そして、世間知らずの理想主義者だと。
それは必ずしも彼本人だけの所為ではないのだけれど、それでも何処か敬遠してしまうような、触れることを躊躇わせるような、そんな清らかさを持っていた。
そして何時の間にか、その『甘さ』に自分は囚われていたのだ。
「君に責任はないけど……君は、後悔してるのかな? 俺を、『選んだ』こと」
出逢ってから、もう五年の月日が過ぎて。
荒れた国を立て直す筈だった自分は、より一層国を追い詰めた。
天が間違えるわけなどないのに、と、狼狽える輩を見て、自分は密かに笑ったものだ。
そう、確かに天は間違えなかったかもしれない。だが、選ばせた相手が悪かった。
もし、万が一、この国のこの時のこの自分の麒麟が、彼ではなかったなら―――
……きっと、何かが変わっていたのだろう。
「悪いね、こんな王サマで。……こんな目に、遭わせて」
決して、手の届かない存在だった。
この世の誰よりも気高く、この世の誰よりも慈悲深い生き物。
自分の性格なんて知り尽くしていたから、絶対に『選ばれる』ことなんて無いと分かっていた。
それなのに、どんどん心惹かれて行く自分が悔しかった。どんなにどんなに想った所で、それが報われることなどありはしないのに……と。
「―――公」
懐かしい、その呼び名は、それだけで昔を思い出させる。
『こんな関係』になる前は、彼は沢山笑ってくれた。
それが日増しに少なくなって、仕舞いには泣かせる羽目になって。
「ごめん、ね」
好きだった。愛していた。大切だった。
絶対に手に入らないと思っていた彼が手に入った瞬間、もう自分は本当に彼しか見えなくなった。彼以外のことなんて、どうでも良いとすら思った。
そしてその想いが表に溢れ出した途端に、終焉への坂を転がり始めたのだ。
出逢った瞬間から、全てが手遅れで。
何処まで戻っても、やり直せる筈など無かったけれど。
それでも、自分は彼と出逢えて良かったと本当に思う。
「帝祉………」
溜め息のような声で、その名を呼んで、触れるだけの口付けをする。
全ての人間を殺してでも、確実に彼を自分のものにしたかったのに、こうして触れたのは初めてだった。
「君が、好きだよ」
いっそのこと、永遠に手に入らなければ良かったのにと、そう思う。
どんなに、どんなに想い焦がれても、決して彼が自分だけのものにはならないのなら。
自分に与えられた特権なんて、彼を殺せること位だ。
―そしてその権利を、自分は絶対に使わない。
「さて帝祉、これが最後の命令だ」
「や、め………」
ハラハラと、止めどなく涙を流すその姿は、胸を突く程に美しく痛ましい。
絹のようだった黒髪は輝きを失って、滑らかだった肌はすっかり荒れてしまっている。本来病とは無縁の麒麟が患うのは、主が道を誤った時だけだ。
そしてそれを直すには、二つの方法が存在した。
「お願いです、止めて下さい……っ」
懇願された末の答えは、彼に自分の手を重ねること。
つまりは……否だ。
「命令だよ。俺を、その手で、殺しなさい」
白刃が、闇を鋭く切り裂く。
ややあって訪れた痛みを感じながら、それでも目を閉じることだけはしなかった。
真っ直ぐに見つめるのは、その身を紅き大罪に染めた汚れた聖獣。
その顔が苦しみに歪められているのを見て、ふと思い出した。
どうして、彼の誓約を受け入れたのか。
それは多分、彼を手に入れられる喜びからもあっただろうけれど―――
――笑って、欲しかったのだ。
けれどその願いは叶わぬまま、彼に癒えぬ傷だけを残し、自分は逝くのだ。
忘れないで欲しい、と、ただそれだけの我が儘で、愛しい相手を苦しめて。
『君が、好きだよ』
その言葉が、その後どれだけ彼を苦しめることになるのか、臨瞰は知る由も無かった。
※ 次のページは読まなくても困らない妄想メモ
けれど、この室の主である青年は、そんなことなど気にも留めていなかった。青年が見ていたのは、目の前にいる存在だけだったからだ。
「……めて、下さい。もうこれ以上は……っ」
いつも、明るく穏やかに微笑んでいる彼のこんな表情を見るのは、これで一体何度目のことになるのだろうと、ふと青年は思った。
泣き出す寸前、と言うよりは、苦痛に顔を歪めていると考えた方がしっくりくるような、それ。そんな顔を見せるようになったのは、本当にここ数年のことだ。
全ては、そう、他ならぬ自分の所為で。
「君は、俺の命令が聞けないの?」
意地悪くそう訊けば、一瞬顔を強ばらせた後に彼は激しく頭を振る。そう、彼は自分には逆らわないし、逆らえない。……絶対に、だ。それでもこうして微かな抵抗を示すのは、それがこの上ない苦痛を伴うと分かっているから。
「……っどうして、貴方が死ななければならないんですかっ」
震えた叫びに、知らず青年は笑みを浮かべた。本当に、本当に、彼は何処まで行っても『彼』なのだ。
もう、取り返しなんて付かないと、分かっていても。
「でもさ、こうでもしなきゃ本当に手遅れになるんじゃないのかな。―――君が。あと、この国も……ね」
「……今からでも、まだ充分やり直せますっ」
「無理だって。元々俺は政治なんて興味無かったんだし。それに……」
昇山をしたのは、単なる成り行きだった。
先王が崩御して、野心を持つ人間が多く出て来て、欲望に支配された人間達が一ヶ所に集まるとどんなことになるのだろう。そんな理由から、あの山に踏み入った。
新しい王になろうだなんて、微塵も思わなかった。けれど其処で、彼に出会った。
「俺は何度も、君のことを好きになるよ」
普段よりも一層柔らかいと自分でも分かる、嫌みなど欠片も無い声音に、彼は益々あどけなさの残る顔を歪めた。
何処までも、何処までも、優しい彼。
初めて出逢った時、まるで砂糖菓子のようなだと思った。そして、世間知らずの理想主義者だと。
それは必ずしも彼本人だけの所為ではないのだけれど、それでも何処か敬遠してしまうような、触れることを躊躇わせるような、そんな清らかさを持っていた。
そして何時の間にか、その『甘さ』に自分は囚われていたのだ。
「君に責任はないけど……君は、後悔してるのかな? 俺を、『選んだ』こと」
出逢ってから、もう五年の月日が過ぎて。
荒れた国を立て直す筈だった自分は、より一層国を追い詰めた。
天が間違えるわけなどないのに、と、狼狽える輩を見て、自分は密かに笑ったものだ。
そう、確かに天は間違えなかったかもしれない。だが、選ばせた相手が悪かった。
もし、万が一、この国のこの時のこの自分の麒麟が、彼ではなかったなら―――
……きっと、何かが変わっていたのだろう。
「悪いね、こんな王サマで。……こんな目に、遭わせて」
決して、手の届かない存在だった。
この世の誰よりも気高く、この世の誰よりも慈悲深い生き物。
自分の性格なんて知り尽くしていたから、絶対に『選ばれる』ことなんて無いと分かっていた。
それなのに、どんどん心惹かれて行く自分が悔しかった。どんなにどんなに想った所で、それが報われることなどありはしないのに……と。
「―――公」
懐かしい、その呼び名は、それだけで昔を思い出させる。
『こんな関係』になる前は、彼は沢山笑ってくれた。
それが日増しに少なくなって、仕舞いには泣かせる羽目になって。
「ごめん、ね」
好きだった。愛していた。大切だった。
絶対に手に入らないと思っていた彼が手に入った瞬間、もう自分は本当に彼しか見えなくなった。彼以外のことなんて、どうでも良いとすら思った。
そしてその想いが表に溢れ出した途端に、終焉への坂を転がり始めたのだ。
出逢った瞬間から、全てが手遅れで。
何処まで戻っても、やり直せる筈など無かったけれど。
それでも、自分は彼と出逢えて良かったと本当に思う。
「帝祉………」
溜め息のような声で、その名を呼んで、触れるだけの口付けをする。
全ての人間を殺してでも、確実に彼を自分のものにしたかったのに、こうして触れたのは初めてだった。
「君が、好きだよ」
いっそのこと、永遠に手に入らなければ良かったのにと、そう思う。
どんなに、どんなに想い焦がれても、決して彼が自分だけのものにはならないのなら。
自分に与えられた特権なんて、彼を殺せること位だ。
―そしてその権利を、自分は絶対に使わない。
「さて帝祉、これが最後の命令だ」
「や、め………」
ハラハラと、止めどなく涙を流すその姿は、胸を突く程に美しく痛ましい。
絹のようだった黒髪は輝きを失って、滑らかだった肌はすっかり荒れてしまっている。本来病とは無縁の麒麟が患うのは、主が道を誤った時だけだ。
そしてそれを直すには、二つの方法が存在した。
「お願いです、止めて下さい……っ」
懇願された末の答えは、彼に自分の手を重ねること。
つまりは……否だ。
「命令だよ。俺を、その手で、殺しなさい」
白刃が、闇を鋭く切り裂く。
ややあって訪れた痛みを感じながら、それでも目を閉じることだけはしなかった。
真っ直ぐに見つめるのは、その身を紅き大罪に染めた汚れた聖獣。
その顔が苦しみに歪められているのを見て、ふと思い出した。
どうして、彼の誓約を受け入れたのか。
それは多分、彼を手に入れられる喜びからもあっただろうけれど―――
――笑って、欲しかったのだ。
けれどその願いは叶わぬまま、彼に癒えぬ傷だけを残し、自分は逝くのだ。
忘れないで欲しい、と、ただそれだけの我が儘で、愛しい相手を苦しめて。
『君が、好きだよ』
その言葉が、その後どれだけ彼を苦しめることになるのか、臨瞰は知る由も無かった。
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