釣りをする人
彼が右へ左へ。
走る彼。
黄色い球を追って。
長いリーチを活かして。
手を伸ばして。
打つ。
打ち返す。
走る。
筋肉が伸びて、縮む。
ボールが彼の横を抜ける。
しまった。目がボールを追って彼から外れてしまった。
ずっと見つめていたかったのに。
ベンチに座っていた乾は足元に転がってきたボールを腰をかがめて掴んだ。
「…先輩」
顔を上げなくてもわかる。海堂の声だった。
見上げる顔が笑顔になってしまうのをやめなれない。
「すいません」
ボーを掴んだ右手を差し出すと、海堂は低くそう言って受け取り走っていった。
乾はその背中を見つめる。
海堂の放ったボールが天に伸び、海堂が振ったラケットにすごいスピードに飛んでいく。
こうして、このベンチでなんど海堂のテニスを見つめたことだろう。
こうして、このベンチで彼のテニスをあとなんど見つめることが出来るだろう。 冷たい冬の風が首筋をなぞる。
受験も追い込みに入っていた。
夏休みに部活を引退した乾がこうして部活に顔を出すのは、一ヶ月ぶりだった。
海堂の姿を見たくて、下校の際は遠回りしてこのコート沿いを歩いて帰った。フェンスの向こう側から眺めることはできても、何故か変な遠慮があって後輩たちに声をかけることがなかなかできなくなっていた。
今日も、菊丸が誘ってくれなければここに座っていられなかったかもしれない。
今、乾が座っているベンチは、現役中に後輩たちの練習を見ていた場所だった。大概、隣には手塚か不二がいて、メニューについて話をしていたが、乾の視線はいつも引き寄せられるように海堂に向かっていた。
菊丸の相手をしていた現部長である海堂が荒い息をして戻ってくる。
どかり、と海堂は乾の隣に座って額に浮いた汗を白いタオルでぬぐった。
「お疲れ様。前より反応が良くなったんじゃないか? あの菊丸と同じ動きしてた」
「受験勉強で菊丸先輩がなまってたんじゃないっすか。やっぱりあの人猫みたいだ」
「結構長いラリー続いてたよな。菊丸も楽しそうだったよ。負けて悔しそうだけど」
負けた腹いせか後輩の素振りの練習を見てやっている桃城にちょっかいを出す菊丸に二人の視線が行く。
「海堂もいい筋肉ついてきたね。関節痛は落ち着いたみたいだな」
「ああ…そんなのとっくですよ。前に先輩がくれたメニュー、一週間も使わなかった」
「あ…そうなの」
一ヶ月前、成長痛で膝を痛がっていた海堂に負担を少なく練習できるメニューを渡していたが、あまり役に立たなかったようで少し落ち込む。それでも、その消沈を海堂に知られたくなくて乾は笑った。
たった一ヶ月会わなかっただけで、自分の知らないことが多くできたようで胸が痛む。悔しい。
「乾先輩はどうなんすか。テニスやってるんですか」
「あー…俺は走ってるだけ。さすがに塾行ってるとテニスまでは出来ないな。近くを夜ランしてるよ」
「なら…誰か捕まえてくるんで1セットでも……」
「ああ、今日はいいよ。体動かすよりも頭を動かしたい気分なんだ」
本当は、久しぶりの海堂の姿を見つめて目に焼きつけておきたいだけ。
肩をすくめて乾が言うと、海堂が呆れたように微笑んだ。
笑った!
心が震える。
「あんたは…変わってないっスね」
眉を下げて笑う海堂。
心から震動が移ってきて、喉がくすぐったい。
乾によく見せる海堂の苦笑だった。何故か、海堂の懐に入っているような自惚れた気持ちになる。
「……海堂…」
海堂の顔を見つめたまま呆然とした乾を不審がって海堂は首をかしげた。眉間に皺がよる。
「またメニュー作ったらもらってくれるかな」
「…勉強しろよ、アンタ」
「ちゃんとしてるよ」
にっこり微笑んで乾が言うと、遠くで「あー、手塚!」と菊丸の声が聞こえた。
ぴくりと海堂の体が反応して、乾から声のほうに視線が流れる。
「部長……」
海堂は呟きながら立ち上がった。
乾はハッとしてその腕を掴んだ。予想通り手塚の元へ走り出そうとしていた海堂は、乾の存在を思い出したように振り返った。
「メニュー作っていい?」
「あ…。よろしくお願いします。いつもすんません」
「いいんだ。好きでしてることだし。引き止めてごめん。行っていいいよ」
掴んでいた腕を離す。
海堂は座ったままの乾を一緒に行かないのかという目で見ていたが、乾を立ち上がらないのにあきらめて、一礼すると手塚の元へ走っていった。
息を吐きながら走る彼の背中を見つめる。
手塚のやろう………!
いい感じだったのに、と愛しの人を奪った鉄仮面を、乾は唇を噛んで呪った。
手塚と話す海堂を見るのはあまり好きではない。たぶんきっと、憧れからなのだろうが、手塚を見る目と、自分を見つめる海堂の瞳の輝きは違う気がする。
手塚が何か褒めたのだろうか、海堂が照れて笑った。
胸に針が刺さる。
乾は目をそらして、膝の上にノートを広げた。
先ほど見ていた菊丸とのゲームのことを必死に思い出そうとした。それでも、海堂のことが気になってしまう。手塚の周りには海堂以外もたくさん集まっているのに、乾には二人しか目に入らなかった。
海堂がラケットを振りながらコートに入っていく。
手塚から離れたことに心の中でほっと息をついた。
後輩のラリー練習のようだった。
一年がコートにつくまで待っている海堂と目が合った。一瞬ではずれる。
乾の心に炎が舞い上がった。熱い。とても胸が熱くて苦しい。
海堂が柔らかくボールを打つ。
走る後輩。
へたくそな返球。
海堂が走る。
一年が走る。
海堂が走る。
素早く動く足。
右へ。左へ。
乾はノートにペンを走らせた。
海堂のメニューを考えるだけで幸せに気分になった。
文字と数字の羅列。これは海堂へのエサ。
ほら、彼はまるで魚のようじゃないか。
釣りをする人。
魚がエサに食い付くのを待っているしかない。
俺のこと。
乾、その後
「乾もきてたのか」
隣で手塚が言うのを、後輩のラリー練習を付き合っている海堂を見つめながら乾は返事した。
膝の上にはノート、右手にはペンだ。
「お前、生徒会じゃなかったのか」
「もう引継ぎはすんでいるしな。すぐに終わった。生徒会室から菊丸の姿が見えたから寄ってみたんだ」
現れるタイミングが悪いんだよ!
「……海堂はまた成長したな。つい先日来た時よりも球の返し方がうまくなっている。一年も打ちやすいだろう」
「先日って…。手塚、しょっちゅう顔出してんの?」
「生徒会が早めに終わった日は見に来てる」
「………」
こ の や ろ う ……!