光、差す
正確に言えば、それは実際の音とは異なるものだ。耳で捉えるものとはまったく違う響き――気配、と称するべきなのだろう。だが鴉羽神社の神使たる彼はその表現を好まなかった。世の中は妙なるしらべで溢れている。無論、そうでないものもあるにはあるけれど。
「りん。りんりん。りりん、りん」
軽く飛び跳ねるように回りながら、今一人の神使――少女が楽しげに歌っている。上手い、と決して手放しで褒められるものではないが、不快ではなかった。
「せいがでやすね仔犬ちゃん」
「はいです! 清さまがお留守の今、がんばらないとなのです!」
神社の主が出かける間際、自分たちに向かって会釈していくのは単なる習慣。そこにさして深い意味はない。だが少女は「任された」ことにひどく張り切っている。
だが敢えてその点を口にする必要はあるまい。水をさすのもほどほどに。無粋はいけやせん、ひとりうむうむと頷くにとどめるのがこの場においてはもっとも相応しかろう。
少女は再び歌いながらそこらを飛び跳ね回っている。動きに合わせて、自然、言葉が口を突いて出た。……釣られた、とも言う。だが恥ずかしがる必要もまたあるまい。飄々と、神使は歌を口ずさむ。
「りん。りんりん。りりん…………おや」
遠方からの音が現実の音に重なった。普段よりも、ほんの少しせかせかとした旋律。一体何事があったというのだろう。けれど、そこに不快さは微塵もなかった。
「主さま!」
少女がぱっと破顔した。神社の入り口にいたのは、ほんの少しだけ肩で息をしている少年。
「お帰りなさい、坊」
「おかえりなさいなのです!」
二人そろって挨拶してみせれば、少年ははにかみながら小さな声で「ただいま」と返した。ふわりと穏やかな音が鳴ったように思ったが、それはすぐに掻き消えた。
「どうしやした坊、なんだかそわそわしていらっしゃる」
「え!? ぅあっと、その、ええっと…」
いかにも困った、と少年が眉根を寄せた。鞄を掴む手に力を込めて、地面へと視線をさ迷わせる。やがてがっくりと項垂れた。
「なにか、悲しいことがあったですか主さま…?」
少女が少年の顔を下から覗き込んだ。背の高い自分には見えないが、少年は今とても困った顔をしていることだろう。見えなくともわかる。少年は今、そんな音をさせている。
「ち、違うよ」
「違うですか…?」
「う、うん……ごめんね鈴ちゃん」
心配かけて。小さな声で、少年は言った。はてさてここはどうするべきだろう? 神使はふう、とため息ついた。
何かを言うのは簡単だ。世にはたくさんの言葉で溢れ返っている。しかし神使は内心で首を横に振った。ここは自分が下手に口出しせずともいい。そら、かすかではあるけれど、少年からは妙なるしらべが聞こえてくるではないか。
「あの……二人とも…………これ」
意を決して少年が鞄から小さな包みを取り出した。深緑色した薄い紙は、ここらでも老舗の和菓子屋のもの。わあ、と少女が歓声を挙げた。
「お供えなのです!」
「ええ!? いやあの…お供えっていうか……お土産…お饅頭……」
「私ら二人にですか、こいつはありがたいですねえ」
「主さま、ありがとうなのです! 主さまのおかげで、いっぱい、いっっぱい力が湧いてくるですよ!」
花が咲いたように破顔する少女とは対照に、少年の顔には影がさす。そんなの、とぽつりと少年は呟いた。
僕にそんな力なんてないのに。
無意識に、だろうか。少年は己の右手を掌で覆った。割れた鈴の音が耳に響く。これも実際の音とは異なるが……いけやせんねえ、神使はまたしてもため息をついた。
手にした煙管を、神使は少年の頭に振り下ろした。
「自信をお持ちなさい、坊」
たーん、と響く鼓の音。
「私ら嘘はつきやせん。本当ですよ。坊のおかげで、ここには確かに力が湧いてきやしたとも」
「鍵さんの言うとおりなのです。すずは、すずは主さまに力をもらったですよ」
胸に手を当てる。少女も真剣に頷いて、同じく胸に手を当てた。
「……もっと、自信を持っていいんです」
少年の顔が歪む。泣きそうに。
鈴の音が、澄んだ響きで耳朶を打つ。快いしらべ。少年の本質そのものの。白札に選ばれた訳が、ここにある…………もっとも、当の白札の化身はそれに気がついていないようだが。
坊の悪い癖ですね、神使は少年の頭を撫でた。少年がますます眉根を寄せた。実に気恥ずかしげに。
「主さま主さま、お饅頭食べるですよ。おいしいもの食べると、ふわーって、しあわせになれるですから」
「おっとそいつは妙案だ。仔犬ちゃん、いいこと言いやしたね」
どうです坊? と水を向ければ、少年は目を丸くした。そして破顔する。
「じ、じゃあ僕、お茶淹れてきます!」
踵を返し、駆け足で少年は母屋へと向かっていく。お饅頭、お饅頭! 少女は包みを手に飛び跳ねた。落とさないでくださいよ、と声をかければ、弾んだ声で「はいなのです!」と返ってきた。
やあれやれ、と神使は肩を竦める。遠方から聞こえる音を聞きながら、神使は小声で口ずさんだ。
「りん。りんりん。りりん…………」
少年の心を満たす、喜びのしらべを。
END