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泥沼を目の前にして

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「………」

「まだ不機嫌なのー?」

俺の担当はキッチンだ。なのに今日はとんだイレギュラーで、ホールに出ることになった。
大嫌いな接客。ここで働いて以来、絶対にやることのない場所だと思って眺めていた。
似合っている、という相馬の声にも腹が立った。女性客の一部が名前を聞いてくるのも、騒がれるのもうざったい。頼まれても二度とやらない。絶対にだ。

「その割にはボタン開けたりしてやる気、いてっ」

「あんなかたっくるしいの、留めてられるか」

「ホントに―?でも確かに佐藤君は開けていた方がいいよ。うん、それでいいよ」

ニコニコと似合うだのなんだの言う口はなかなか塞がらない。いい加減こいつの相手も疲れてきたし、さっさと着替えて帰ろう。
あの後も閉店まで働いた。その間、予定にない時間に店長に会えた喜びを見せる轟を見て、更に疲れているんだ。これ以上疲れる意味はない。


喋り続ける相馬を無視して更衣室に入る。すると相馬も後追って入って、話を続ける。当然と言えば当然なのだが、うざったい。

「空気読んで黙れ、とか思ってるでしょ」

「……心を読むな、相馬」

「酷いなぁ。佐藤君が顔に出てわかりやすいだけだって。轟さんを見てる時みたいに」

いらっときた心を素直に表し、ガン、と相馬の脚を蹴る。すると、『痛い、脚が折れちゃうよ。伊波さんにも今日殴られてるんだから優しくしてよ。俺だってホールで疲れてるんだよ』と、元気そうな声がする。どこが疲れている。
もう一回蹴って、その煩い口を本格的に閉じさせようとした。しかしその前に、俺のバランスが崩れた。いや、崩された。
何にだ?

「似合ってるのはホントだよ。でも今の方がずっといいね。疲れた感じが色っぽい」

「相……馬?」

背中にはロッカー。肩は強くそれに押しつけられている。どういうことだ。
理解ができず、目の前の相馬をぼんやりと見ていた。にこやかな笑みを俺に向けると、俺の開いたシャツに顔を埋めている。何かがヤバいと察知し突き放そうとしたが、その前に鎖骨に小さな痛みが走る。

「てっ…めぇっ!」

「あは、綺麗についたね」

ひらりとかわされた拳骨。胸に残る熱さと痛み。ちらりと見れば、明らかにおかしな痕が開いていた部分に一つ落ちている。この後服に着替えて見えなくなるとはいえ、許せるか。
相馬の胸倉を掴む。相変わらず変わらぬ笑みで俺を見ているので、床に潰してやろうかと思った。
しかしその前に、相馬の右手が、俺の顔の横を凄い勢いで通る。その勢いがロッカーに全てゆき、騒がしいくらいの音が鳴る。
何をしたいのか、俺にはわからなかった。飄々とした調子で、相馬が意図を教えるまで。

「この音を聞いて小鳥遊君が開けたら、見ちゃうかもねキスマーク」

「相っ…」

「噂は回るの早いからね。轟さんにまで届くのもすぐだよ」

そんなことあるわけねぇ。言ってやりたかったが、ドアをノックする音、そして小鳥遊の大丈夫かと聞く声。直ぐに開けないのは女子たちがそこにいて、無暗に開けられないということか。
そう考えてしまえば、俺の口は大声でなんでもないと叫んでいた。遠くに行けと、祈るように。

「苦しいよー。佐藤くーん」

「……っ」

苦々しい思いで頭が煮えたぎりそうになりながら、俺は相馬を離した。そして直ぐに着替えを始める。
こいつの傍にいてたまるか。少なくとも、今日はもう帰りたい。帰らせろ。

「そうだ!ホールで働いた記念に今日は俺の家で飲もうよ」

「断る」

「断って先に帰ったらどうなると思う?佐藤君」

事実だけを述べて、相手をゆする。こいつの常套手段。今までも同じことはあったが、程度が違う。これは、ばらされるわけにはいかない。
しかしここで従えば、また弱みを握られる結果になる。つけこまれるのは目に見えていた。


しかし、だ。

「……飲む」

「よかったぁ」

わかったところで、避けられる術はない。全てはこいつの前で油断した俺が悪いのだ。
そういう風にして人を強請って生きてきたのだと、わかっていながら。


作品名:泥沼を目の前にして 作家名:緋菜