日常の断絶点
ぱちり、と目を開けた。見慣れた天井はいつもどおりで、その事にただ懐かしさで、わけもなく涙が溢れだした。
「―――…おはよう、クジャ」
「おはようジタン。…どうしたの、随分変な表情して…、…見覚えはあるけど」
そうだね、まだ敵として会った頃の表情に少し似てるね。でもそれよりやっぱり変だ。まるで懐かしいのに懐かしくない、憎いのに憎くない、悲しいのに悲しくない、そんな顔だ。
「…そんな変な顔してるか?うーん…、…まあいいや、とりあえず朝飯用意するから、待っててくれ」
「食欲あんまり無いんだけど。…まあそれはいいや、キミが食事の用意してるのをじっと見てるよ。―――…何、更に変な顔して」
いや、とジタンは答えようとして、ぽり、と一度頬を掻いた。そのあとにふと、何かに気づいたように、まだ寝台に腰掛けたままのクジャの顔を覗き込む。薄青の瞳は月長石のように硬質で、だがそれは自分と同じ輝きだ。じ、と覗き込めばそれでも、人形のように整ったその顔は逸らされない。笑みすら浮かべないその表情は、けれど決して硬いものではなかった。なるほどこれは自分が毎日顔をつきあわせている相手だ。そう思う。毎日毎日、ただ二人だけで、まるで夢の中に埋没していくようにただ静かに、積み木を重ねるようにただ記憶を重ねている。だが。
「―――ジタン?」
胸を衝く感情はまるで、かつてその男と―――兄であるとすら知らず、ただ敵だとしてしか認識していなかった頃の事だ―――戦いの中でまみえた時のものに似ていた。その白皙の頬を張り飛ばしてなんて馬鹿な事を言っているんだと襟首を掴んで揺さぶりたい。もっとも、だとするとそれはやはり既に彼が自分の兄だとわかった上での話なのかもしれない。なあクジャ、世界は壊れる、人は死ぬ、記憶は薄れる、だけど続く、なあそりゃあ怖いかもしれない怖いかもしれないもちろん怖いに決まってるだけど!目頭が熱くなった事に気づいてジタンはぐ、と唇を曲げた。何事もないいつもの朝にいきなり泣きだしでもしたが最後、最低でも一週間は毎時間のようにその話題でからかわれる事は目に見えていた。
「――――………ねえ、無防備だよ」
だから涙を堪えるのに必死になっていたジタンに、クジャの動きに払う余裕があるはずもなかった。細く長い形のいい指先がさらりとジタンの柔らかな曲線を描く頬を包む。気づいた時にはその月長石に似た薄青の瞳は更に近づいていた。重なる唇は暖かい。常ならばその時点でふざけるな、とでも叫んで振り払って終わりにしただろうが、いつもの朝であるにも関わらず、今感じる相手のその存在はあまりにも甘く否定するにはあまりにも切なかった。消滅の前には派手なレクイエムを歌おう、そう言って笑ったその相手のなんと禍々しく妖艶だった事か。滅びゆく世界の中でその存在感が薄れていくのを、どれほどの恐怖と共に、けれどそんな怯えなど誰にも見せずに、ただ重々しい弔いのように見つめていた事か。
重ねられた唇は柔らかく、そっと入り込んできた舌は熱かった。普段からすればむしろ強引さの足りないくらいの、まるでこちらの存在を確かめるようなどこか気づかった所作に、逆にぴくりと肩が跳ねる。ジタンは静かに瞳を閉じて代わりに応えるようにその背に手を伸ばし、もたれかかった。見慣れた寝室。ぴちゃりと響く唾液の絡む音。よく知った体温。崩れる事のない馴染みの世界。きし、とクジャが腰掛けたままの寝台が音を立てた。は、とつく吐息は甘く荒い。何度も角度を変えて、けれど激しくはなくついばむように、けれどやはり深く口づけあう。存在を確かめあうように。どうかどうか。
「―――……、…っ、は…」
「……このまま雪崩込んでもいいけど、どうする?」
「…それは勘弁してくれよ。俺は朝飯にしたいんだ…」
「…まったく、いつもながらキミにはムードってものがないよ」
「失礼な。アンタ相手にそんなムードいらないだろ、省エネだよ」
そっぽを向いたその頬が林檎のように赤く染まっていてはあまり説得力はなかっただろうが、それでもクジャは諦めたように一度肩をすくめるとジタンを解放した。そのものわかりの良さに逆にジタンが驚いた。ひょっとして拗ねてでもいるのかとその白皙の美貌を窺う。じろ、と一度だけクジャは困ったように、あるいは憎悪にも似た強い光を一瞬だけ宿してジタンを見つめ、そして次の瞬間泣きだしそうに儚い、けれど自嘲気味の笑みを浮かべて、ぽつりとつぶやいた。
「――――…夢を、見たんだ」
それは万感の思いの籠もった言葉。クジャの片手がつと、ジタンの手を握る。
「―――……長い、長い夢だったよ。キミもいた。ずっと戦ってた。つまらなくはなかっけど、そうだな、楽しかったって言ってもいいけど、でも……、……でも最後には全部消えた。夢なんだから消えるのは当たり前だね、だけど、そう……、そうだな…―――」
すべて消えるその瞬間の事を、考えてみたことはあるかい?
ぎゅ、とジタンはクジャのその手を握り返した。クジャと同じ月長石にも似た薄青の輝きを放つ瞳は、やはりまたしても涙の予兆に大きく見開かれていた。泣きだすまいと曲げられた唇を開いて言葉を紡ぐ。それはなんて。
「――――………なあ、クジャ。
俺、俺も、夢を、見たよ――――――」
長い長い夢で、その中で俺とアンタはずっとずっと戦ってて、ああ、アンタは最後には、いやそんな事はどうでもいいんだ、だってどうせ世界だって消えるんだから、俺だって消えたんだから、けれどこうして覚えているんだから、なあ、きっと、すべてが。
泣きだしそうな眼差し同士がふと交わる。震える微笑みがお互いの唇からこぼれるのは同時だった。お互いの体を抱き寄せてその温もりを確かめるようにきつく縋るのもどちらが先というほどでもなかった。ただ、いつもの朝はいつもの朝に過ぎなかったけれど、けれど夢の中で世界はとっくに壊れていて彼らはとっくに消え去っていて、けれどけれど遅かれ早かれきっとクジャは本当にジタンを置いていく。消滅の恐怖。それでも覚えているという事の意味。
「――――…覚えてるんだ。俺、全部覚えてるよ。だから、きっと、そうやって…そうやって続いていくんだ、ただそれだけなんだ」
まるで幼い子供がするようにその背にすがりつきながら、自分に言い聞かせるようにジタンはただそうつぶやいた。クジャはその言葉にただ一言、そう、と返しただけだった。互いを抱きしめる腕は緩まない。ただこの温もりを。ただこの存在を。ただその言葉を、すべてすべて覚えて抱きしめて失わないように抱えていく事がこれからもできるなら、夢の中で見たすべての記憶を思いを忘れずにいられるなら、そうだ、そうすればきっと今この瞬間にも、過ごしてきた日々にも、消え去った夢の中の経験にも、すべて意味ができるだろう。続いていく。何もかもが。きっとそうにちがいないと譫言のような言葉の羅列の最後にそうつぶやいて、ジタンは今はこの温もりに溺れることにした。