凍土の記憶
あの時、哀しいと言ったのは僕の言葉ではなく、またあいつの言葉でもなかった。
望む、望まぬを考慮せずにいうのならばそれは全く彼の言葉であったはずで、もちろん僕の言葉であるはずも無い。敷き詰めた雪を踏みしめ、軋んだ阿鼻にも耳を貸さず振り返ったそいつは余りにもいつもどうりだった。一ついい忘れたと鮮やかに笑うさまは哀れではなく何処までも滑稽で、果たして、これから本当にこいつは捨て駒となってしまうのだろうかと不思議に思うほどだった。
愛猫の首もとに手をやり、少々微笑を浮かべたまま、有難う御座いますとだけ告げた姿が不意に哀しいと零した気がして一瞬眼を疑った。もしやこれが夢なのではないかと勘ぐってしまうほど。けれど、そんなばかげた空想も、雪を含む凍てついた風に吹き飛ばされて、結局そいつは笑ったまま、軍帽を取り深く一礼した。
呟くように、雪が降りそうですねと零した声が異様に耳に残っていた。
俘虜として生き延びた今、実感と言うものは淡く薄く延ばされた餅のようなもので、上質な部屋に閉じ込められて三日、ちらついていた雪は姿を消し、そこはかとなく思い出したのがかつての後輩のことであったりする。彼の結末について理不尽だと憤慨する事など当然できるはずも無く(そしてまたする気も無く)、見送った際の事ばかりを思い出して少し、嫌な気分になった。雪はもう止んでいたからだ。
雪は美しいと賞した事のある彼は、けれど冬を余り好いていないようだった。一度、何故と問うた事がある。そんな問に、彼はやはり笑顔で言うのだ、冷たいじゃないですか、と。
結局好いてもいない季節の中で彼は結末を迎えることとなったのだ。それを選べないのが軍人の定めであり、誰もが覚悟しているものではあるが、冷たいじゃないですか、と言った彼を知っている以上しょうがないと苦笑する事すらできはしなかった。運が無かったのだと結論として導かれたならそうなるが、口にしてしまえばあまりに無常で安っぽく、また嫌な気分になって眉根を寄せた。どんなに言葉を選ぼうと現実は変わらず今は雪さえ降っていない。それを良しと取るか悪し取るかは人それぞれだ。もし、あいつが居たとしたら何と零すだろうか。降って欲しいと願うだろうか。やはり冷たいと笑うのだろうか。
愛猫の喉に手を滑らせて笑んだ昔を思い出し、そういえば怒った顔なんか見たこと無いなということを考えた。
視線を投げかけた窓に張られた切り取られた空の一部は、鉛色の窓枠とは到底合わないコントラストで鮮やかに広がっている。
ほんのりと暖かい室内で欠伸を噛み殺したところで、そういえば、彼が、雪を好きだと一度たりとも言っていないことを思い出した。