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馬鹿げた二人

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あまりにも空が高い日だった。

吹き去る風がひどく冷たくて、なんとなく故郷を思い出す。眼下に広がるのはどこまでも続くインディゴブルーの海。心だけがここから飛び降りて、無性に掻き消えてしまいたいと願っている。だけどそんなこともできやしないから、なだめるようにしてその漣を見つめ、達海は隠れるように小さく呼吸した。まっすぐな日差しは乾燥する空気を容赦なく照らしている。そんな様を見て、達海はもしかして、ここが砂漠だったならっていう馬鹿げたことを考えた。不毛の土地に八方を囲まれて、行く当て所なくさまよいながらいつか疲れ果て、そして最後には骨まで砂になれたなら。永遠の逃亡なんて言葉が達海の頭の中で翻る。
(結局、どうにもならないんだけどね)腹の内でそんなことを呟いた達海は、ふうと息を吐いて空を見上げて、三メートル向こうにいるシチリアの町が似合いすぎてる男を見た。
男の背後に密集する白い壁には鮮やか過ぎるほどの色彩が眠っている。並び立つ白い民家は作り物のようにおとなしく、達海をただ無表情で見つめる男も饒舌な口を閉じて、目元には疲れを漂わせていた。
ずいぶん大通りから離れてしまったせいで、めっぽう人道理の少ないこの場所はまるで、死んだ町のようで薄ら寒い。何がうすら寒いと言えば、ここには初めから二人しかいなかったんだとそんな錯覚を起こしてしまいそうだったからだ。
「もう逃げれないよ、タッツ」
低い声は少しだけすがるような響きを持っていた。そういうことに敏い達海はその男がどうしてそんな声でしゃべるのかを知っていた。けれど達海はそれに気づいていないふりをする。世の中には知らなくていいことは腐るほどあるのだ、これもきっとその一つに違いないと達海は思った。
達海の前で顔をゆがめる男は、前眺めていた顔よりも幾分年をとっていてそこにある確かな時間差に、少しだけ達海は安心していた。

「そうか?」
「そうだよ。いい加減諦めたら」
「どうかな、諦めだけは悪ぃんだよ、俺」
「知ってるよ。」
「そうだっけ。」

はは、という達海の乾いた笑いが、シチリアを滑る渇いた風にさらわれてどこかへと飛んでいく。達海はもう一度、ぱさぱさになって砂になって、そしてここが砂漠だったならと馬鹿げたことを考えた。できるならだれにも知られずに、行き先もなくさまよって、そこまで考えたところで達海はけれども、眼の前にいるこいつにはそれを望んでほしくないなと考えた。王子という名がよく似合うこの男には、白と青とまぶしい脚光で満ちた鮮やかな世界がよく似合う。

「どうして逃げたの。」
「またそれか。聞き飽きたぜ、その質問。」
「答えてくれないから聞くことになるんだよ。」
「そーなんだけどねー。答え聞くためだけにここまで追いかけてくんのは後藤くらいだと思ってたのにな。」
「馬鹿にしてる?」
「さあね」

男は口を尖らせて、すねたような表情になる。それを見て少しだけ懐かしい気分になった。真夏の風を何時だって浴びていたあの緑のグラウンドの隅、吹き抜ける風に身を焦がして走り抜けた昔、そんなことがフラッシュバックして達海は優しげに笑った。

「お前には教えてやんないね。」
「どうして?」
「どうしてだろうね。」

こういうことにつけてはひどく自分が臆病だということを達海はよくわかっていた。というよりも、わからないで済ませるほどもう若くはなかった。
だから、こんなところまで細い細い糸をたどって会いに来た男を無下に突き放すのが得策だということもよくわかっていた。男がどういう気持ちを抱えてここまで来たか、達海は知りたくないほど理解してしまっていたからだ。そして自分が抱えている感情も、もう眼をそ向けていられないほどにわかってしまっていた。

「さっさと帰れよジーノ。」

達海がジーノから視線を外して億劫そうに眼をそ向けていうと、ジーノは離れていた距離を縮めるように歩いて、達海の骨ばった腕を見た目よりも強い力でつかんだ。

「帰らないよ。」

声に迷いはない。達海は腕に感じる熱にどこか他人事のような視線を向けてから、呆れたように呟いた。

「王子様はいったい何を御所望なんだ?」
「知ってるくせに」
「知らねぇよ」
「タッツはそういうと思った。」
「なんだそりゃ。」

見上げる達海の視線を余裕を浮かべた笑みで見返して、ジーノはまるでいたずらを仕掛けた子供のように首をすくめた。

「タッツは、もう帰る気がないんでしょ。」
「…俺の役目はとっくの昔に終わっちまったからなぁ。」
「でも、ボクにはタッツが必要だよ。」
「甘えんな。ガキ」
「あーあ、タッツてさ、すぐそういうこというよね。雰囲気ぶち壊し。口説いてるのに。」
「お前はこんなとこに来る時間があるなら、ガキらしくボールでも追いかけてろよ。」

呆れたような達海との会話のうちも、ジーノは手を離さなかった。
口では軽くしゃべりつつも、瞳だけは真剣なままで、それがどうしようもなく達海を不安にさせた。もしかしたら、必死に作り上げた境界線をこいつが踏み越えてしまうんじゃないかと達海はひどく不安な気持ちを抱えたまま息を吐く。

「誰のところにも、まだ、戻る気がないんだよね。」
「それがどーした。」
「だったらさ、」
「うん?」
「ボクががついて行っちゃえばいいんじゃないかって思ったんだよね。」
「お前、馬鹿じゃないの。」
「かもね。でも案外悪くないと思わない?。」
「救いようがねぇな。」
「ボクは迎えに来たんだよ、タッツ。一緒に逃げよう。」
「どこの三文役者のセリフだ、それは。」

ジーノの腕が迫ってギュッと身の内に抱えられる。こいつは馬鹿かと達海は本気で考えた。ちょっとだけ跳ねた心臓に嫌気がさして達海は眉根を寄せる。

「とりあえず日本に逃げようか。」
「帰るとどう違うんだ、それは。」
「だってタッツが、ボクが試合してるの見るの好きだからしょうがないよね。」
「どんな理屈だ。」
「一緒に逃げようよ、タッツ。」

まったくばかげてると思いながら達海はジーノの肩口から果てしなく続く海を見た。さざ波の広がりはどこまでも続くインディゴの地平線からたゆたうように広がっている。まったく共倒れだよ、と達海は思う。いや、この場合倒れるのは俺だけかなとちょっと考えなおした。本当にどうしようもない男は達海の肩口に顎を載せて、達海の骨ばった体をきしむくらいに抱きしめている。
こんなところで抱きしめあったりするなんて、まるでチープな映画のワンシーンだと、うすら寒いことを考えながら、達海は肩口に埋まる男のほほに手を伸ばした。

「本当に、馬鹿だね、お前」
「どっちが」

このどうしようもない馬鹿な男が達海がせっかく作った境界線を軽々と踏み潰すから、さんざん考えていたことがすごく馬鹿らしくなるのを感じて、達海は諦めたような溜息を吐いた。冷えた風は相変わらず吹き続けていたけれども、砂漠のような日差しも相変わらず照らし続けていたけれども、ここは砂漠ではないからきっと迷いはしないんだろう。
「こんなとこまで捜しに来るお前はきっとどうかしてるよ。」
そういうと、ジーノは少しだけ笑った。


(そして、それがたまらなくうれしい俺も、きっとどうかしてる。たぶん。)



作品名:馬鹿げた二人 作家名:poco