膝あらため
頭の中ではそこは芝の生えそろったピッチであり、透明なキーパーが両手を構えるゴール前、ペナルティエリア。
FWとしての仕事を阻むのは、いつもの相棒である少女ではなくて長身に坊主頭を乗せたDF、日比野光一だった。
彼もまた二人きりの公園だとか真夜中の練習だなんて気持ちは捨てている。遊びよりもずっと真剣に、むきになっている子供よりは冷静に、ボールとゴールを奪い合って体をぶつけ合い、足を伸ばし、かわし、一度振り切られてもすぐに追いすがって鋭く滑り込む。
ボールが高く跳ねて公園の入口へ転がった。深夜とはいえ車道まで転がり出そうな様子を見て慌てて追いかける。手で拾い上げたボールを持って駆が公園内に戻ると、額の汗を腕で拭った日比野がベンチを示した。
「一旦休憩だ。」
駆は首を傾げた。まだホイッスル代わりのアラームは鳴っていない。
夜の公園での練習の際はいつも携帯電話のアラームを試合と同じ45分にセットしていた。それはこうして夜に会うのが数度目の日比野も知っているはずだったので、素直に日比野を追ってベンチの前へ来て「どうしたの?」と訊ねると「いいから座れ」と空いたベンチの左側を二度叩かれる。
「駆、お前今遠慮しただろ。」
何のことかはすぐに分かった。
それまで躊躇いなく日比野を捉えていた視線が揺れ、用事もないのに足の間に置かれたサッカーボールに落ちる。
駆には日比野に対する負い目があった。
三年前―小学六年生の頃、練習中に夢中で振り抜いた駆の足が割り込んだ日比野の膝に酷い怪我を負わせた。
今も耳の奥で声変わり前の日比野が呻いている。担架だ救急車だと叫ぶ大人の声と、遠くから近付いてくる救急車のサイレンの音。自分は怪我などしていないはずなのに日比野の抱えた左膝のあたりが疼いて頭を抱えた。
それから今年になって再会するまで日比野と同じボールを追いかけたことはなかった。小学校へ顔を出した彼はいつも松葉杖をついていて自由にならない足に苛立っているように見えた。
日比野が駆を責めたことはないが、駆には怪我をした足への苛立がそのまま自分に向けられているように感じられ臆病になった。
それ以来サッカーを離れたところでも以前のようには付き合えず、間にできた壁を乗り越えられないまま日比野は引越し、電話や手紙のやりとりもしなかった。
「この間の試合で吹っ切れたんじゃないのかよ。」
「ごめん…」
膝に乗せた拳を握り締める駆の横で日比野がため息をつき、それと同時に緊張を解く。
「いや、責めてるわけじゃなくて…」
言葉を探して唸る日比野に再び口にしそうになった「ごめん」を飲み込んだ。
数日前にあった江ノ島高校と湘南大付属高校との試合では遠慮なしに日比野と全力でぶつかり合えた。その夜にこの公園で兄の心臓を移植され、その生命を背負っていることも打ち明けた。
今はわだかまりを抱え関係が停滞したままだった三年間の距離を埋めているところだ。あまりネガティブな言葉を重ねたくない。
そっと顔を上げると日比野とまともに目が合う。
「…頭ではもう気にしてないつもりなんだ。」
けど…。咄嗟に怯んでしまった。言葉と一緒に視線が揺れる。
「分かってる。」
短く吐き捨てるように呟いた日比野がまた唸りながら坊主頭の後頭部を乱暴に掻いた。そしてパンッと音を立てて両手を腿に乗せる。
「気にしてるのはお前だけじゃないよな。俺も、お前が遠慮してるんじゃないかって気にしてんだ。お互い様だ。」
「日比野…」
「俺が引越してからもしばらく左足使えなくなってたぐらい気にしてたんだ。そりゃすぐにすっぱり頭を切り替えるなんてできねえよな。今は試合でもねえし…」
早口でまくしたてた。
小学校の頃、あの事件が起こる前はどうやって仲直りしていただろうか。振り返るとつまらないことで沢山喧嘩をした記憶が蘇る。小さな喧嘩の仲直りの仕方はよく知っていたし、どれだけ怒っていても一緒にボールを追いかけたら楽しさが勝って改まった仲直りなんか必要なくなった。
あの事件までは。
前後で並んで歩いていて踵を踏まれ怒ったことがある。よそ見をしていてぶつかった時も怒った。
でも、それよりずっと酷い怪我をさせられた時には痛みが治まってからも怒りなんか湧いてこなかった。
顔を合わせるたび不安そうな表情を見せる駆に「大丈夫」と言いたくて、でも大丈夫ではないことを自分が一番わかっていたから言えなかった。平気な顔をして強がりたかったけれど馴れない松葉杖では上手くいかずいつもの調子で振る舞えなかった。
そして、開き始めた駆との距離をもどかしく思い始めた頃、両親から引っ越すことを打ち明けられた。移り住んだオランダでも手術を受け、リハビリの末に走っても見た目ではわからないほどになった。
今は膝に筋状の手術痕が何本か残るきりだ。皮膚の下で靭帯が切れたままになっているのだって分かりはしない。
日比野はズボンの布越しに自分の膝をひと撫でした。当然痛みなどない。
「駆も、胸はもう痛まないんだろ?」
駆が顔を上げて自分の左胸を押さえる。そこにあるのは駆の兄、傑の心臓だ。二年前の事故の際に移植されたそれは拒絶反応もなく、元から駆のものだったかのように動いている。
「うん。」
「それと一緒だ。」
土埃で汚れたズボンの裾をまくり上げると膝が夜風にさらされる。淡黄色の街灯の明かりに照らされた膝には手術痕があった。駆は自分のそれよりがっしりした筋肉の凹凸、またそこに走るやや赤みを帯びた切開痕から目を逸らさなかった。
「触ってもいい?」
「ああ」
躊躇いがちに手を伸ばし、そっと指先で膝の丸みをなぞると、日比野が身動ぎ喉仏が上下した。反射的に手を離して「ごめん、痛かった?」と聞くと乱暴に手首をつかまれる。
「自分で言い出したくせにビビってんじゃねーよ。」
痛くないから、と手を引いて強く膝に当てる。
それに従って手のひらで包むようにすると、今度は日比野も動かずにそれを見つめた。
指を広げて鍛え上げられた筋肉を確かめる。日比野の努力の証でありピッチの上で闘うための鎧だ。頼もしい感触がそこにある。
「な?」
手首を開放した日比野の声に顔を上げると、何故だか少し困ったような表情をしていた。
深く頷くと日比野は捲り上げていた裾を戻しそのままベンチの前で軽く屈伸をして立ち上がった。
「ハーフタイム終了」
言うが早いか駆の足元にあったボールを浚って公園のスペースの真ん中へと躍り出る。
「あ、日比野ズルい!」
駆もまた日比野を追って駆け出した。まるで昔のように、一つのボールを奪い合うことに夢中になる。頭の奥で響く長い笛の聞こえるまで。