月夜、犬と狼
足取り軽く提灯片手に彼の元へ。
わたしが生まれる前から既に空家であっただろう古さの廃屋の庭。
大きな樫の木の下に、彼はいつものようにちょこんと行儀良く座っていた。
「よお」
「こんばんは、月村せんぱい。今宵も良い月ですね」
「だなぁ」
挨拶もそこそこに鬼火の灯った提灯を引かれ、彼の腕の中にすとんと収まる。
手放した提灯は一瞬蒼く燃え上がり、ふうと息を吹きかければ灰も残さず闇に紛れた。
背に回された腕がぎゅうと強くわたしの身体を抱く。
半袖のTシャツから伸びるふわふわとした毛に覆われた腕をその毛並みに沿って撫でると、彼は気持ちよさそうに目を閉じて更にぎゅうと身体を密着させた。
上着を持ってくるのを忘れた自分にとって、体温高めのこの暖かさは心地良い。
「ねえせんぱい、いつになったら肉球出るんですか?」
「あー……分かんねえ。まだろくに耳も変わってねえからなあ……まあ、今度親父に聞いてみるぜ」
早く一人前になりてえなあ。
そう言って、まだらに毛が生えた顔面で先輩は月を仰ぎ見る。
成長途中の所為か、その顔はわたしには狼というよりも犬みたいだと思ってしまった。
言うと怒るだろうから口にはしないけれど、尖りかけの耳にふわふわの毛がぴよぴよと靡いてる様はやっぱり、異形の獣に対する恐怖よりも愛らしさが上回る。それが万人に受け入れられる感覚かはともかくとしても、だ。
ああ、かわいい、かわいい。
そう思いながら耳を撫でると、せんぱいは擽ったそうに身体を捩った。
「ちょ、おいっ…幽谷……っ」
「やめません」
構わず耳を触り続ければせんぱいは狼のような声で短く吠えて、右手首を強く掴まれてしまう。
あ、やばい。調子に乗り過ぎた、かも。
人外の速度にわたしが追いつけるはずもなく、そう思うと同時に肩に鋭い痛みが走る。
間一髪情けなく声を上げることは抑えたものの、がっぷりと右肩に喰らいついているせんぱいを力づくで引き離すのなんて不可能だ。
薄いシャツの上から生温かい舌がぬるりと滑ってびくりと背筋が引き攣る。
「つきむら、せん、ぱい……」
ぎりぎりと吊りあげられた手首に鋭い爪が食い込む。
名前を呼んでも反応が無い。表情が見えない。喰らいついた牙が徐々に力を入れ始める。
うわ、これは駄目だ。このまま噛み切られるのなんて御免被る。もう形振り構っていられない。
「っ……痛いです!ごめんなさいッ!!」
「分かりゃいいんだ」
ぱっ、と。此方が拍子抜けするほどにあっさりとせんぱいは手と口を離した。
先程までの不穏さは綺麗さっぱり消えうせて、自分の付けた噛み跡を指でなぞりながら「あ、シャツに穴開けちまった。悪い」なんて呑気に確認している。
「……なんですか。なんなんですか」
「んあ?安心しろよ。血は出てねえから」
「じゃなくって!」
「おっ」
「……からかったんですか」
「へへっ、悪い」
全然反省してない。
いや、調子に乗ったわたしにも非があるのは分かっているけれど。
「まあさ、今回は我慢したし、許してくれよ、な?」
今回“は”?
狼というよりも飼い主に見せる犬のような気の抜けた笑顔に戻りながらも、どさくさに紛れてこのひとはとんでもない事を言う。
犬っぽく見えてもやっぱり狼……なんだね。
右手首の青痣に、「次回」なんて起こすまい。と、鬼火でせんぱいの尻尾を焦がしながら、わたしは溜息を吐き固く強くそう誓った。